カテゴリー「歴史に学ぶ」の8件の投稿

歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰8

遊学許可が下り、松陰がまず尋ねたのは関西でした。
このときに4年前に清で起こった太平天国の乱を知ります。
「対外戦争に敗れた後は、内乱が待っている。」
兵学者として日本の危機的な状況を、改めて思ったのです。

 松陰はその足で江戸へ向かい佐久間象山のもとを訪れました。
象山門下生としての学びをはじめようという矢先に、浦賀に黒船という情報を耳にします。
浦賀で見たペリー艦隊は最先端の技術で作られており、そこから導き出される戦力は、
日本が箸にも棒にもかからないものであることを実感させるものでした。
 「戦火を交えれば必ず負ける」そう強く思った松陰でしたが、
「日本武士のふんどしを締めなおすときが来た。大いに喜ぶべきだ」ともいっています。
まぁ、負けず嫌いですね。本当に。

 冷静に考えてみれば、アメリカにしても日本を滅ぼすことに意味はありません。
薪、石炭、水、食料植をタダで提供させること、つまり植民地化することに意味があるわけなのですから。

 松陰はこのように考えたようです。
アヘン戦争でイギリスが行った戦略と同じに、アメリカと戦争に及べばまず伊豆諸島を占拠するだろう。
そこから伊豆半島沿岸を略奪し特に食料運搬船を阻み、一隻も浦賀の港に入れないようにする。
食料が入らなければ江戸は騒然となり、飢える者が現れ内乱となる。
これに乗じアメリカが不平等な要求をつきつきえてくるはずだ。

 この通りになってしまいましたね。
この当時の物流の交通手段は海路なのですから、海路を絶たれたらひとたまりもありません。
他国を研究しながら、自国をくまなく歩き、自分ならどこを攻めればおとせるか。
ここが兵学者の視点です。
地形を見ること、世界から日本を見ること。
 
これは現代でも同じです。
アメリカがなぜ日本に基地を置かなくてはならないのか。
尖閣諸島が中国にとってどういう意味があるのか。
日本はどういう対応をすべきなのか。
その対応をするとしたら予算がどのくらい必要なのか。
その予算はどこから捻出するのか。
国民はどこを我慢しなくてはならないのか。

 無理に優しい言葉を使わなくてもよいと思います。
専門用語を説明するだけで日が暮れてしまいますから。
日本政府は国民に向けて、もう少し国防について話をして欲しいと思います。

一家に一冊ほしい、この二冊

 

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歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰7

嘉永5年4月に東北遊学を終え江戸に戻ると、萩藩より直ちに帰国を命じられ、杉家で謹慎をすることになりました。
藩から松陰に対する処分が降りたのは、帰国後半年を過ぎたころでした。
処分の内容は「士籍・世禄を没収、実父・杉百合之助の育み」で、形の上では厳しい処分となりました。
この処分が下りた同日12月9日に、百合之助は藩に対し「十ヶ年の間他国修行」の許可を求める伺いをし、
翌年1月13日には正式に許可願いを出し、1月16日には藩より許可が下りています。
 御家人召し放しという重い処分を受けたのにもかかわらず、遊学の許可がすぐに下りました。
よく考えてみると、脱藩して萩藩に戻り処分が下されるまでに半年もかかったということは、
その間萩藩と杉家との間で松陰の今後をどうするのか話し合いがあったのでしょう。
ルールと形式を踏んで、時間をかけて周辺を納得させた藩侯毛利慶親(敬親)の想い、
松陰の能力を埋もれさせてはいけないという親心に近い想いがあったのかもしれません。
しかし遊学許可が下りた一番の要因は、遊学中の松陰から日本各地の情報が、
慶親(敬親)にもたらされるからでしょう。
松陰から孫子の兵法を学んだ慶親(敬親)だからこそ情報収集の重要性を理解し、
また松陰に期待をしたといえます。

 孫子の兵法(謀攻篇)に「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」とあります。
これは「敵と味方の情勢を知ってその優劣短所を把握していれば、
たとえ百回戦ったとしても敗れることはない」という意味です。
国防において情報収集が大切なのは、昔も今も変わりません。
松下村塾の飛耳長目録も、情報収集の一環であったのですね。
 さて、兵学者の松陰は、安政4年に「孫子評註」を執筆しました。
この書物は文久二年に久坂玄瑞が松下村塾の仲間に出版を相談し、
翌年に版刻されたそうです。
そして松陰殉難50年に乃木希典が補足を組み込んだ形で、ポケットサイズで活字印刷されます。
海軍兵学校の教材に用いられたとも言われています。

お知らせ

「政治家に必要なもの丸ごと教える短期集中講座」のご案内です。

尾崎行雄記念財団と日本論語研究会の共催です。

一般財団法人尾崎行雄記念財団
「尾崎行雄・咢堂塾」 政治特別講座
共催: 日本論語研究会
尾崎行雄記念財団は、「憲政の神」尾崎行雄(咢堂:がくどう)の理念をもとに1956年に設立。より良き民主政治と世界平和の実現に向け、有権者啓発・人材育成などを行なっています。この「咢堂塾」(がくどうじゅく)は、尾崎行雄の三女・相馬雪香(そうまゆきか/2008年逝去)が中心となり1998年に発足。約450名の卒塾生のうち、国会議員3名、首長3名、地方議会議員40名を輩出しています。その「咢堂塾」が、来る参院選・都議選に向け、現職の政治家や候補者、政治の仕事に携わる人、目指す人を対象に、「政治特別講座」を開催します。(※尾崎財団は、超党派の団体で、会長は、時の衆議院議長が務めます。咢堂塾も党派を超えて行なうもので、特定の政党や団体を支持するものではありません。)

【概要】 来る参院選・都議選に向け、政治家及び政治の仕事に役立つ短期集中講座。党派を超えた政策・
人間学を通じ、政治理念と実践力を身につけます。期間後半では塾生自ら意見発表を行ないます。
【期間】 2013年3月~5月/毎週月曜日/午後6時30分~8時 /全10回 【定員】15名程度 (先着順)
【費用】 5万円(本代を含む) 【場所】 尾崎財団事務室(千代田永田町1-1-1憲政記念館内)

◇第1回 政治理念・尾崎・相馬の理念と行動
憲政記念館(旧尾崎記念会館)で学ぶ事の意義、「憲政の神」尾崎行雄そして「実践の人」相馬雪香
の信念・生き方を学びます。
◇第2回 現代政治と人間学
政治家に必要不可欠な人間学を、聖賢や名宰相から学びます。
◇第3回 政治とインターネット(ネット選挙への対応)
政治に効果的なインターネットの活用法、国政選挙でも戦える実践ノウハウを踏まえて伝授します。
◇第4回 憲法と安全保障
今、話題の国家安全保障、防衛政策、そして憲法の問題について学びます。
◇第5回 地方政治を考える
政治の基礎は地方自治である事を鑑み、地方から見える政治の課題を考え、個々の課題発見や
動機付けを模索します。
◇第6回 日本経済と起業
「経世済民」が示すとおり、これからの政治家には経済・計数感覚が欠かせません。課題解決の実際を、第一線の起業家から学びます。
◇第7回~10回 塾生から意見発表(各自13分)
自己を鍛える場として、これまでの成果を踏まえ発表します。
■講師及びコーディネートは以下の陣容で行ないます。
田村重信(慶應義塾大学院非常勤講師/日本論語研究会代表幹事/自民党政務調査会調査役)
石田尊昭(尾崎行雄記念財団事務局長)
田坂富代(下田市議会副議長/咢志会幹事)※咢志会(がくしかい)は咢堂塾の卒塾生団体
高橋大輔(咢志会幹事/ITプロデューサー)/ ほか

別紙の申込用紙にご記入のうえ、下記まで郵送またはファックスして下さい。締切日: 2月25日(月)必着
お申込を確認した後、当方から第1回講義やお振込手続き等のご案内を致します。
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-1-1 憲政記念館内
尾崎行雄記念財団 「咢堂塾」 政治特別講座 係 (FAX:03-3581-1856)
ご不明な点など、お気軽にお問い合わせ下さい。(TEL:03-3581-1778/
info@ozakiyukio.or.jp
第1回は、3月11日(月)です。

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歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰6

歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰5で、吉田松陰の赤穂義士を尊敬している

と記しました。
そこで松陰をはじめとする、長州武士の気質について、触れておかなくて

はなりません。

藩校である明倫館には、当時孔子が祀られていました。
(現在孔子の像は萩博物館に展示されており、明倫小学校には聖廟の前門

である観徳門が建っています)
藩が藩士の子弟教育のために設立・経営した学校が藩校ですから、その教

育は儒学を主としてきました。
武士の子供は、孔子の教えを学んできたというわけです。

特に「論語・為政」に影響を受けないはずがありません。
私が注目したのはこの言葉です。
「義を見てせざるは勇無きなり」
「義を見てせざるは勇無きなりとは、人として行うべき正義と知りながら

それをしないことは、勇気が無いのと同じことである」という意味です。

そういう風土で育った松陰も、「義」というものをとても重んじ大切にし

てきたのだと思います。
だから義を貫いて散っていった赤穂義士に、心をよせずにはいられなかっ

たのでしょう。

さて脱藩してまで強行した東北遊学ですが、各藩の政治や軍備について、

実に淡々と情報収集をしています。
天保の飢饉から以下に立ち直ったのか、藩札の発行などについても調べて

います。
国防において情報収集が一番大切だということは、昔も今も同じです。
財政・経済が複雑に絡み合った生情報の中から、必要な情報を拾い上げ行

動するために必要なものに加工する。
自衛隊が日々行っている訓練と同じですね。

この遊学中に一番影響を受けたのが、水戸藩の会沢正志斎でありました。
尊王攘夷論の先駆けである「新論」の著者もとを、頻繁に訪ねています。
そして会沢から次のような言葉をもらっています。
「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地

に立たん」
松陰はこの後、日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天

皇実録・日本三代実録と読み進めていきました。

水戸藩にはもう一人松陰に影響を与えた人物がいます。
豊田天功です。
豊田はアメリカの地理・歴史と日本とのかかわりをまとめるなど、広い見

識を持っており、この学びの中から益々海外への想いが強くなったのかも

しれません。

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歴史に学ぶ~兵学者。吉田松陰5

佐久間象山の下で学び始めた吉田松陰は、象山からオランダ語も学ぼうとしていました。
外国の書物(当時はオランダ経由なのでオランダ語で書かれていました)を読むために必要だったのでしょうが、松陰はこの時点で、外遊をしようとしていたことが窺い知れますよね?
前稿にも記しましたが、江戸遊学での猛烈なスケジュールで、あらゆる有名私学を一気に学びました。
そこで生涯の師となる佐久間象山に出会います。

 そして、その佐久間象山がまたぶっ飛んだ人だったようです。
何度打たれようとへこたれず、びっくりするくらいの高慢さです。
常に上から目線で、「俺がいるから日本は大丈夫だ。俺の言っていることは正しいのだから、頭を下げる必要は無い。」など、上下関係も全く意に介さずという生き方をしています。
そして象山自身が、「己は狂である。」といっているくらいなのです。
 よく街づくりには「若者・ばか者・よそ者」の三つの者が必要だといいますが、新たな国をつくるに等しい幕末の動乱期にも、同じことが言えたのだと思います。
ただ街づくりの「ばか者」よりももっと熱を持ったばか者が、象山のいう「狂」だと私は理解しています。
佐久間象山の「狂」をそのまま受け継いだ吉田松陰。
この二人は、赤い炎をあげている「狂」であり、静かなる青い炎をあげているのが同じく佐久間象山の弟子の勝海舟なのではないかと思います。
 いずれにしても「狂」という「熱」を持ったわずかな人々が、
命がけで走り抜けたことによって、日本は独立した国家として繋がったといえます。

 さて松陰は、佐久間象山に弟子入りする前に藩に申請を出していた東北への遊学ですが、許しは出たものの身分証明書の発行が間に合わないという事態になりました。
松陰は「脱藩」してしまうのです。
普通に考えれば、「パスポートが出なけりゃ、旅はできんだろう?」ですよね。
「狂」の人ですから、ものの考え方が違うのです。
 なぜ脱藩したのかといえば、他藩の友達との約束を破るわけにはいかないというものでした。
松陰の理屈はこうです。
「他藩の人から長州人は優柔武断だといわれる。長州藩を恥ずかめることになる。脱藩は藩に背くようだが、罪に問われるのは自分だけである。藩を辱めるわけにはいかない。」
 そしてもうひとつ松陰にとっては、どうしてもはずすことの出来ないことがありました。
東北遊学は親友宮部と亡き兄の仇討ちを目指す江幡五郎と、同行することになっていました。
出発日と決めていたのが、赤穂義士討ち入りの12月15日。
山鹿素行から兵学を学んだ赤穂義士への尊敬と、江幡への激励をこめたこの日をはずすわけには、どうしてもいかなかったのです。

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歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰 その4

 江戸での学びもこれでもかというほどの、強行スケジュールで行われました。
その合間に親友の宮部鼎蔵と、安房・相模の沿岸部を小旅行しています。
この時の松陰の日記は失われてしまったようですが、旅を共にした宮部の日記には次のように記されていました。
「土地の遠近を測り、水陸の地形を知るは、兵学において最も緊要である。近年の防衛を論じる者は、その述べるところ憶測であって、自分で実際にその地を訪れずに空論をなしており、軽々しくて注意が足りない。このようでは、有事の際にそれが筋道に適っていると期待することは難しい。」
共に旅をした松陰も、同じような思いをもったことは、想像に難くありませんね。
この宮部の考え方は、現在にも通じます。
日本の防衛を論ずるとき、海を外すわけにはいきません。
海が国境となっているのですから当たり前ですが。

 松陰は江戸での忙しさが一息ついた頃に、
「林復斎や佐藤一斎などは、戦争について口にするのも忌み、ただただ西洋は有害であるとしている、とるべき態度ではない。安積良斎や山鹿素水などは西洋から学ぶべきことはないとしながらも、防御の論は必要だとしている。古賀茶渓や佐久間象山は西洋から学ぶべきことが多いとして、しきりに研究している。これらを総合して習練すれば面目を一新できるのではないか。」
と、叔父の玉木文之進に手紙を書いています。
これがいかにも松陰らしいですね。
というのも、少し先の話になりますが、野山獄中での講孟余話の講義の冒頭、次のような話をします。
まず『孟子序説』を論じて、「経書を読むときに最も重要なことは、聖人や賢人に追従しないことである。少しでも追従の気持ちがあると、道をきちんと理解することができず、学問をしても益より害がある。」
江戸に遊学していたときから、師と仰ぐ者にさえも、厳しい目を向けていたことが窺えます。
ある意味松陰の天邪鬼な性格が、大成する元になったともいえるのではないでしょうか?

 さて、記事冒頭の宮部との小旅行を終えた後、松陰は東北遊学のための暇乞いを行い、早速許可が下り水戸、仙台、米沢、会津などへ兵学修行に出かけようとしていました。
そしてこの時、江戸遊学中一番大きな影響を受けた、佐久間象山に入門しました。
佐久間象山との出会いは、後の松陰の運命をも左右することになろうとは、この時の当事者は誰も考えてはいなかったでしょう。

:::::::::::::::

 ここまで吉田松陰を書いてきて思ったことは、藩侯・毛利敬親がいかに松陰を大切にしてきたかということです。
このことについてはまた触れようと思っています。
 敬親は、長州藩の第13代藩主で、幕末の混乱期にあって、有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで、窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物といわれています。
わずか18歳にして藩主となったのですね。
 年齢を問わず立派な政治家の下には、多くの人材が育っていきます。
現在国政において、影に日向に活躍している人物は、立派な政治家の下で指導を受けたのかもしれません。

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歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰 その3

吉田松陰は19歳になると後見が解かれ、本格的に明倫館での指導を開始します。

20歳になると藩命により日本沿岸藩領の防備状況を巡視し、明倫館門人を率いて軍事演習を行いました。

21歳になった松陰は藩内だけでは飽き足らなくなり、日本国内の他藩を私費で外遊します。

まずは長崎で洋式砲術を学び、オランダ船に乗ったようです。

平戸では兵学者・葉山佐内のもとで、外国情勢について学びます。

この時松陰は後の行動を左右したであろう書物を、貪るように読んでいます。

具体的には、アヘン戦争の記事を集めた「阿芙蓉彙聞(あふよういぶん)」、フランスの砲術所「百幾撤私(ペキサンス)」、水戸藩の儒学者会沢正志斎の「新論(しんろん)」などです。

そして佐藤一斎の書物も読んでいますね。

「大学古本旁釈(だいがくこほんぼうしゃく)」「愛日楼文集(あいじつろうぜんしゅう」などです。

大学古本旁釈は、王陽明の『大学 古本旁注』に佐藤一斎の補釈を加えた書。

愛日楼文集は、佐藤一斎が生前に残した唯一の詩文集ですね。

この九州遊学中読んだ書物の数、びっくり致しました。

道中も含めわずか5ヶ月間。実に100冊を超えています。

当時の読書には書写がつきものでしたから、この100冊というのは超人的な数字ですね。

松陰は「近時海国必読書」(幕末の蘭学者の翻訳書や諸家の海防論数十編を編集したもの)など、海防に関する書物も数多く読んでいます。

熊本では、後の親友になる宮部鼎蔵と出会っています。

 九州から帰ると、兵学修行のため萩藩から江戸へ派遣されます。

江戸では佐久間象山など当時随一といわれる学者の門を、端から叩いていきました。

このように吉田松陰は、兵学者としての道を一歩ずつ歩み始めたかに見えました。

:::::::::::::::::

【余談】

松下村塾開塾150年記念・吉田松陰と塾生たち」という冊子があります。

編集は萩博物館。たぶん・・・10冊くらい購入しました。

見て、読んでい頂きたい方へのギフトやら、その他いろいろ・・・。

この冊子を購入したのは、姉妹都市交流で萩市へ伺った昨年の11月、立ち寄った萩博物館での学芸員をされている先生から、「吉田松陰先生絵伝」がこの冊子に掲載されていることを教えて頂いたのがきっかけでした。

「吉田松陰先生絵伝」を描いたのは松下村塾塾生の渡辺こう蔵の実兄で、松陰の誕生から刑死後まで、15の主要な場面が描かれています。

興味のある方は、萩博物館から取り寄せることができます。

さて、萩博物館の名学芸員さんから、面白いお話を沢山伺うことができました。

そのひとつ「萩は陽明学です。若者が動く原動力になりました。ひじちょうもくろんです。」

なんだ?ひじちょうもくろんて?????

ひらがなで「ひじちょうもくろん」で検索したら、すぐに出てきました。

飛耳長目録(ひじちょうもくろく)だったんですね。

吉田松陰ファンならずとも、知られていることだったようです。

飛耳長目 (ウキペディア)

塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負う所が大きい。

「飛耳長目」の出典は「管子」(春秋時代斉の管仲)の「九守」の一節、「一曰長目、二曰飛耳、三曰樹明、明知千里之外、隠微之中」(一に曰く長目、二に曰く飛耳、三に曰く樹明、千里の外、隠微の中を明知す)だそうです。

管子は中国の春秋時代、斉の政治家なんですね。

世界大百科事典

彼(管子)の政策は,内政では商業を重視して国を富ませるとともに,国民を軍国主義的に編成して兵力の強大化につとめ,対外的には諸侯の信頼を得ることを第一とした。


山鹿流兵学者としては、管子の「飛耳長目」を引用したくなったのでしょうか?

情報を収集し将来の判断材料にせよ、これは軍隊の日常業務ですよね。

自衛隊も日々この訓練を行っています。

http://www.mod.go.jp/gsdf/eae/prcenter/p003.html

http://www.mod.go.jp/gsdf/eae/prcenter/large/info_010.html

少々話がずれてしまいました。

この「吉田松陰先生絵伝」のなかに剣道の稽古が描かれているのですが、解説には「文武両道の気質のなか、剣術師範の平岡弥三兵衛に入門。しかし学問に打ち込むあまり、ほとんど稽古ができなかったという。」とあります。

ある意味ほっとします。

私の勝手な解釈ですが、きっと剣術は苦手だったんだと思います。

好きだったら時間作って頑張りますものね。

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余談 

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歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰 その2

山鹿流兵学者の家に生まれた松陰は9歳までの臨界期に、徹底して兵学をインプットされました。

だからこそ10歳にして明倫館の教壇にたち、11歳の時には藩主毛利毛利慶親の前で山鹿流兵学の祖・山鹿素行の『武教全書講章・戦法』を講じました。そして23歳の若さで免許皆伝となりえたわけです。

森田義彦著・兵学者吉田松陰には、「慶親の前で講じたものは、常識的に考えて、玉木文之進たちが覚えこませたままの内容を一生懸命暗唱しただけであっただろうし、実際の講義録を読んでもその中身に彼(松陰)ならではの独自性は見られない・・・」とあります。

意味など解らなくてもいい、とにかく徹底的に覚える。

大量な情報がなければ、それを加工することも繋ぎ合わせることもできません。

自ら学ぶことや自由な発想は、まずは大量なインプットが必要であるのです。

私は現在の学校教育には、このインプットが圧倒的に足りないのだと思っています。

さて、この詰め込み教育が問題だということで、中曽根政権時代に臨時教育審議会で3年間の議論の末出来上がったゆとり教育ですが、もともとは日教組が週休二日にして自分たちにゆとりをということが発端でした。

ですからゆとり教育の柱は2本あり、一本が週5日制の導入、もう1本が総合的学習の時間です。

私はこの総合的学習の時間の導入は、良い政策であると評価をしています。

自ら調べる、疑問を解決していく過程で学習の広がりがあるなど、また地域社会のなかに入り込んでの学びにも、子供たちが得るものは大きいと思っているのです。

生涯学習の一部に学校教育があるという考え方なのです。

私が学び舎にしている尾崎行雄記念財団の主催する咢堂塾の12月の講師が、ゆとり教育の発案者で現在京都造形大学教授の寺脇研氏でしたので、いいタイミングでお話しを聞けました。

私は寺脇氏の講義を聞くのは3回目でしたので、復習という面でちょうど良かったなと思っていますが。

「総合学習は週に1~2時間なので、あとは今までと同様の勉強をしている」ということなのですが、私が引っかかっているのはそこなのです。

今までと同様なことではいけないと思うのです。

臨界期までに徹底した読み書きそろばん教育ができるかできないか・・・わが身を振り返り思うのは頭の仲の引き出しの数の少なさです。

とくに読書量がものをいうのではないかと思いますが、吉田松陰の読書量は半端なものではありません。

特に吉田松陰を形作った背骨の部分が山鹿流の兵学でありますから、幼少期には相当な分量の山鹿流の書物を暗記しているはずです。自分の考え云々の前に、先ずはインプット。

このルールは先人の偉業で実証済みです。

さて、その山鹿流とはいったいどんなものだったのでしょうか。

ウキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81

(全部引用)

山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行によって著された兵学(兵法)の流派。

諸藩でも普及しており、肥前国平戸藩では山鹿素行の一族の山鹿平馬が家老に、素行の次男である藤助が兵法師範に採用されて山鹿流が伝来している。長州藩では吉田松陰が相続した吉田家は代々山鹿流師範家であり、松陰も藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法偏三の講義を行っている。実の叔父にあたる玉木文之進も山鹿流兵学に明るかった。(萩市史第一巻)。また、筑後国柳河藩でも山鹿流兵法師範がおり、文久年間に柳河藩士卒が山鹿流に編成されている。

こちらのHPに詳しく書かれておりました。

http://www2.ocn.ne.jp/~saigouha/kuden/kuden39.html

(一部引用)

山鹿流の特徴は、単に戦術に重きを置いた軍学ではなく、戦乱の世から離れてしまった武家社会に於て、本当の武士の生き様とは如何なるものかを探究し、武士道精神を啓示した特異な流派でもあった。山鹿流の精神には、戦術を教える『武教全集』と技術面の部分を除けば、『葉隠』にも共通した箇所があり、武士の道義的心得が貫かれていた。

この山鹿流は「諸学を兼ね修める」という流儀であったため、松陰は長沼流山田亦介の門をたたきましたが、そこでアジア諸国に起こっていることを知ることになりました。

アヘン戦争を知ることになったことが、松陰を動かすきっかけになったのでしょう。

亦介に学んだ松陰は数え年17歳で記した「異賊防禦の策」で、孫子の「兵を用ふるの法、其の来たらざるを恃む無く、吾の以て之を待つ有るを恃み、其の攻めざるを恃む無く、吾の攻む可からざる所有るを恃むなり。」を引用し、平時にあって有事の備えをせよという大原則を示しています。

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歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰 その1

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私が尾崎行雄記念財団の咢堂塾と並び生涯の学び舎としている日本論語研究会で、

今年の2月に「歴史に学ぶ~開国と伊豆下田との関係~」という演題で講演をする機会を頂きました。

 

http://rongoken.jp/

 

http://rongoken.jp/tamura/master.html

 

下田の開国に関する話題となれば、当然吉田松陰にも触れることになります。

 

当時の私は吉田松陰といえば恥ずかしながら、「踏海の企」と「松下村塾」から数多くの偉人を輩出したということくらいしか知らなかったのです。

 

「開国と伊豆下田の関係」の原稿を書き進めるにあたり書籍や資料を読み進めていく中で、吉田松陰の山鹿流兵学者としての側面が、開国から明治維新にあれだけ多くの弟子を輩出した、もっとも大きな要因であったと感じられました。

 

今日日本のおかれている状況、危機感は、開国当事と酷似しているのではないかと思われます。例をひとつ挙げれば、政権が全くといっていいほど安全保障・外交に関して無知であり、国家として機能していなかったことでしょう。

 

この度姉妹都市の萩市への訪問を機に、吉田松陰という兵学者について感じたところを数回に分け書いてみたいと思います。

 

 吉田松陰が生きた時代がどのような価値観を持っていたのか、準拠するものは何なのかを理解しておかないと、吉田松陰の考え方から大きく外れてしまいます。

 

例えば、当事の寺子屋での学びを知る上で良い例がありますので、日本論語研究会の講師をされた増田和夫氏の講演録をご覧いただければと思います。

 

45分位から大学の素読をされます。

 

「大学の道は~明徳を明らかにするに在り~・・・」

こういう読み方であったろうと増田氏は言っておられますが、なかなか高度な素読ですよね。句読点の「、」で待ってくれないのです。

不親切この上ないですね。今じゃ考えられません。

学びはレベルの低きに合わせる、リレーでもゴールはみんな手をつないでテープを切るなんていう、恐ろしく人権に配慮した教育ですから。

松陰と晋作の志 一坂太郎著」に書かれていますが、56歳だった松陰が学びの最中、顔についた虫を手ではらっただけで殴る蹴るの折檻を受けました。

 折檻をした叔父の玉木文之進は、こんなことを言うわけです。

学問は私事ではなく公のためにやっている。将来、殿様・藩・天下国家の役に立つためにやっている公事だ。その最中に虫が止まって痒いなどというのは私事であり、おまえは公私混同をした。」

今で言ったら虐待だと思うのですが、松陰はそれを受け入れながら私心を捨てる訓練をさせられたのでした。

こういう価値観の中で吉田松陰という人間が作られていったのです。

教育者吉田松陰を語る方々が一様に言われるのが(私が知る限りなので悪しからず)、

「その人の性格や学びに合わせて指導をしていった」なのですが、

私はそれも否定はしませんが、その前に今では死語になった感のあるスパルタ教育があったのだと思うのです。

徹底した厳しい教育の上に、その人の性格にあわせた指導だったのではと。

お手々繋いで仲良しこよしの学び舎から、時代を動かす原動力が生まれようもありませんから。

この記事を書き始めたときに、このニュースを見て愕然としました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121108/t10013347511000.html

(NHKはすぐに消えちゃうので魚拓

http://megalodon.jp/2012-1109-2034-10/www3.nhk.or.jp/news/html/20121108/t10013347511000.html )

 

「褒めて伸ばす」科学的に証明

実験を行ったのは名古屋工業大学などの研究グループです。

グループでは右利きの男女48人を対象に、左手を使ってキーボードで5桁の数字を30秒間にわたって、できるだけ多く何度も入力する運動技能の実験を行いました。実験は12回行われ、実験の後、48人は「他人から褒められる」と、「他人が褒められるのを見る」、それに「自分の成績を見るだけ」の3つのグループに分けられたということです。

そして、翌日にも同じ実験を行うと、他人から褒められたグループは、入力回数の成績が20%よくなっていた一方、ほかの2つのグループは、いずれも14%程度の伸びにとどまっていたということです。NHK NEWS WEB記事一部引用)

 

9歳までの臨界期に出来る限りのインプット、つまり詰め込み教育をするための「褒め」ならばそれも良しなのですが、現在の人権に配慮したゆとり教育の中でそれをやったとしたら、出来ないけれどいいよねというとんでもない話になってしまいます。

教育論はこちらも日本論語研究会の動画、岩越豊雄氏の講演をご覧ください。

 

さて、吉田松陰が幼少期に叔父の玉木文之進から学んだ一番大きなこと は何でしょうか。

それは 「学びは公のためにある」 、このことでありましょう。

兵学者となるべく決定づけられた子供は、師についた時から「公」を意識することを学びます。

そしてわずか10歳にして明倫館の教壇に立ち、19歳で師範として独立、23歳で山鹿流免許皆伝となりました。

つづく…

こちらもぜひご覧頂けると有難いです。m(_ _)m

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下田市議会議員たさかとみよホームページ 

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