カテゴリー「下田の歴史 私のルーツ」の18件の投稿

日米の草の根外交と国防意識

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http://www.boueinews.com/topics/topics.cgi

 

6月1618日、海上自衛隊は、米海軍第7艦隊所属の指揮統制艦「ブルーリッジ」の東京港晴海ふ頭入港に伴い、護衛艦「いせ」を入港させ、日米合同親善寄港を実施した。

 

BoueiNews.com 記事一部引用)

 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120617-00000078-san-soci

 

トモダチ作戦の英雄 海自護衛艦と米指揮統制艦が晴海ふ頭に寄港

 

(産経新聞 617日(日)755分配信 記事一部引用)

 

 

 

616日の夜、東京の晴海埠頭で行われた米海軍第7艦隊の旗艦ブルーリッジ艦上レセプションでは、先ず日米両国の国歌を第7艦隊音楽隊が演奏しました。

 

はじめは日本の国歌の君が代から。生演奏で聞く君が代は船内に荘厳に響きます。その次は軽快な響きの星条旗(英語 : The Star-Spangled Banner)を。日本に敬意を表して先に国歌を演奏して頂くという事に、嬉しさとアメリカへの信頼感を強く感じました。

 

両国の国歌を演奏する側、聞く側、そして両国の国旗、それぞれに誇りと敬意をもっているからこそです。

 

国家間というものは常にお互いに敬意と尊敬の念を持つべきだと私は考えています。

 

隣国のように平気で他国の国旗を燃やしたり、破いたりするなど、断じてあってはならないことです。許してはならないことだと思っています。

 

 

そしてジョン・ルース駐日米国大使が海上自衛隊創設60周年をお祝いし、そしてトモダチ作戦で共に協力しあった日米の揺るぎない友情を再確認させてくださいました。

レセプションのあとのパーティーでは、ルース駐日大使に、今年の5月の下田黒船祭にご来席頂いたことと、今回のレセプションにご招待いただいたことを感謝申し上げました。

Nanakan10

 ルース大使は記念撮影にも気さくに応じて下さいました。

 (ジョン・ルース駐日米国大使を中心に、向かって左が大黒孝行下田市議会議長、右が私)

 海上自衛隊の横須賀地方総監・河村克則海将とも会場でお話する機会がありました。

 昭和9年から継続して行われてきた「黒船祭」は下田市民の単なる娯楽イベントとしてだけはなく、米海軍と海上自衛隊が主役の民間レベルでの草の根外交の側面を持っています。

 その継続があればこそ、小さな地方都市の市議会に対してもレセプションの招待状が届くのです。

 そして開国当時、下田にて命を落とした米海軍の水兵さんたちを下田のお寺で手厚く葬り、150年もの長きに渡りその墓地をお守りしてきたという歴史的事実もあります。

 私は下田市民の代表として、日本国民として、誇りを持ってレセプションに参加をして参りました。

アメリカ海軍のレセプションには海上自衛官の方たちもたくさん参加なさっていました。

 その自衛官の方々とお話させていただいて、改めて国防とは何か?という事を私たち一人ひとりが考えなければいけないことだと痛感しました。

 誰かが守ってくれるという他力本願ではいけません。自分たち一人ひとりの行動が国防を紡ぐ。そういう意識が必要だと思います。

 折しも東京都の石原都知事が尖閣諸島の募金活動を始めて、6月15日現在で82,000件の振込があり、金額も12億弱という物凄いものになっています。

 これも又日本国民の強い意思であるのだと私は思っています。

 日本は隣国との明確な国境が無い島国であるという特殊事情から極めて国土意識が薄く、学校教育でも正確な事はなかなか教わりません。そのため韓国に不正に実効支配されている竹島などの特殊事情も認知度が薄いと思われます。

 昨年の中国漁船の尖閣周辺での不法操業事件は、日本人に改めて「国土防衛とは何か」を教えた事件だったと私は考えています。

 あの時の与党民主党の外交の対応の不甲斐なさに怒りを覚えた国民も多かったでしょう。

 あの事件が反面教師になり今回の東京都の英断と、日本国民の意思の発露に繋がったものだと私は考えています。

 国家同士の外交と、言葉はキツイですけれど「食うか食われるか」という部分ギリギリだと思っています。アメリカのような紳士的な国であっても外交上不利益な事があれば徹底的に牙を剥いてきます。ましてや外交上のルールさえ無い中韓などではそれはごく当たり前の事なのです。

 そういったことをわきまえた上で「外交」を考える。それが必要なのだと私は思っています。変に譲り合う必要などありません。主張するべきところは強く主張する。それが外交政策であり国防であると思っています。

 他力本願でなく自分たちが守れるものは自分たちで守る。それが今求められている事なのです。

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歴史に学ぶ~日本の開国と伊豆下田の関係~ その3

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(下田出身の儒学者・中根東里)

 それでは資料の下田小学校校歌をご覧頂きたいと思います。二番を見てください。

下田出身の偉人を歌っています。「愛の正長・技の蓮杖・学の東里を育みて」とあります。この学の東里は、下田出身の儒学者の中根東里のことです。下田の歴史上の人物では、一番日本論語研究会に近いといえます。2010年の2月に、文藝春秋に三回にわたり中根東里の特集記事が出まして、その著者である茨城大学・磯田先生によれば「絶後の詩才を讃えられながら、身を隠すように生きた清貧の儒者」だそうです。私といえば中根東里は江戸時代の陽明学者という事ぐらいしか認識がありませんでした。開国の頃より随分とさかのぼりますが、ご容赦を頂きたいと思います。

 さて、中根東里とはどんな人物であったのかということを、少しご説明したいと思います。東里は1694年の生まれで17歳の時父の死に遭い、学問好きだったこともあり剃髪し仏門に入りました。

荻生徂徠

(

おぎゅうそらい

)

室鳩巣

(

むろきゅうそう

)

に学び、清貧の生活を続け、40代で陽明学と出会います。「致知格物・知行合一」を唱える実践学は東里の心を捉え、「孔子伝授の心法は、ことごとくこの書にあり。なんぞこれを読むことの晩きや」と叫んだそうであります。そしてそこから陽明学者として大成していくことになります。一言で中根東里を表現するならば、学ぶことや様々な人間関係に対し、自分の理想をとことん貫いた人物といえます。

 東里が陽明学に出会うきっかけとなった事件があります。

江戸の弁慶橋近くの木戸番をしていた頃のことで、竹の皮を使った草鞋を編んでそれを売り、生計を立てていました。わずかなお金がたまれば書物を買って読むという生活です。

そのうち近所の町屋の子供たちが自然に集まってきて字を教えてくれなどといい、地面に棒きれで「いろは」を書いて文字などを教えていたようです。

そういう時代に東里は、虐待を受けている子供に出会います。幼くして母親を失い、父親が知人の女にその子を預け、その先で虐待にあい食べるものも食べさせてもらえないような生活だったようで、泣いては眠り起きては泣く、そんな幼子はいつの間にか東里の目の前からいなくなってしまったのです。

「自分はいったい何のために、これまで学問をしてきたのか」そんな思いの中で、今までほったらかしにしておいた友人から贈られた本・王陽明全書を読み、先ほど申し上げました境地に達したのです。昔から虐待はあったのですね。ここでちょっとご紹介をさせていただきます。

虐待にあい「僕はもうここで死ぬんだ」とあきらめかけた幼少の頃、これでもか、これでもかという逆境の荒波にもめげず、不撓不屈の精神で立ち向かい平成のKOキングと呼ばれた男、坂本博之さん。ご自身の虐待の体験から、現在は児童養護施設の子供たちへの支援などを行っています。坂本博之応援団下田支部長の私としては、この機会に皆様にご支援をお願いする次第でございます。

 東里が後世に残した言葉は沢山ありますが、私自身のキャッチフレーズといいますか、いつも心に留めている言葉が二つあります。

ひとつめは「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」、これは早稲田大学の創設者、大隈重信が演説で引用したことでそちらの方が有名になってしまっているようです。

意味は、人に施しや親切を行っても、そのお返しを願ってはいけない。また施しや親切を受けた時には、その恩を忘れてはいけない。忘れずにそれに報いることだという事です。

その通りですよね。

でも日頃つい忘れがちなことです。

私はこんなにあなたにしてあげているのに、なんであなたはやってくれないの?私はこんなに愛しているのに、なんであなたは愛してくれないの?こんな風になっては人間はおしまいです。

私は東里のこの言葉は、神道を根源とする日本人の慈愛の心を言っているのだと感じました。

神道は共同体を守るための土着信仰でありますから、国家や郷土、そして家族の和を大切にする日本の文化そのものです。

そこには慈愛の心がないと上手く行きません。

「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」は、神道を根源として日本人がつくりあげてきたある種の道徳観なのだと感じます。

だからこそ政治の場に身をおく者として、いつも心がけたいことなのです。一票を頂いた恩義は決して忘れないけれども、一票がほしくて政治を行ったらいかんのです。本末転倒です。

政治を行うということはいわゆるお金の配分にほかなりません。一票をもらったあなたの直接的な利益にはならないけれども、自治体という市民の集合体をより良く継続させるためにはこの政策を押し進めます。そういう私を良しとしないならば、次の選挙で一票はいりません。諸事問題が起こるたびに、腹をくくって本気で政治に取り組む決意をさせてくれる「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」です。

 ふたつめの言葉は「出る月を待て、散る花を追うことなかれ」です。

この言葉は東里の弟の経済的困窮から、その娘の芳子を引き取り養育していた頃のものです。

当時東里は53歳です。いつ自分が死ぬかもわからない。自分が死んだら残された芳子はどうなるのか、そんなことを考えていた時に浮かんだ言葉だったようです。

人生において、喜びの瞬間は短い。どんなに大切な人との別れも必ず来る。しかし、桜の花は散っても月は必ず出てくる。それを待つ時間をどのように生きるかが「人」である。こんな意味でしょうか。

物事には全て終わりがあって始まりがある、私はそんなふうに理解をしています。

桜の花が潔く散っていくように、けじめを付けて終わらせなくてはならない事、終わる時期が来た事はすっきりと跡形もなく終わらせるのがよいのです。終わらせないと次の段階に進むことが出来ません。

潔く終わらせるという発想は、ともすれば歪んだ左翼思想の持ち主から「戦争賛美」だの「特攻隊美化」だのと言われそうですが、潔く終わるということも又日本人の美意識に根ざした思考であると考えています。

散る桜を愛おしく思う感性、四季折々の木々の佇まいに美しさを見出す感情こそ、四季に恵まれた日本独特の感性ではないでしょうか?

夏は蝉時雨、秋は落日、冬は冴え冴えとした朝の空気、春は散る桜。四季のめぐりに心を寄り添わせながら、日本人は心を研ぎ澄ませ、繊細な感性を四方の海に護られながらその特有の感性を育んできました。

一つ所にとどまらない四季の移ろいは、日本人の心に陰影を添えます。

永遠などこの世にはないのだという無常観。決してネガティブな意味での無常ではありません。

全ては移ろい、全ていずれは、滅すると言う達観。日本人なら誰もが心の根底に持つ悟りといってもいいかもしれません。

繁栄の隣には衰退が、輝かしい生命のかたわらには死が、光のそばには影が寄り添っていることを感覚で知っています。

日本人特有の物事への淡白さ、潔さはすべてを明らかに視るという意味での「あきらめ」でもあれば、又独自の美意識でもありましょう。

咲き誇る花が美しいのは、やがて散る定めにあり、しかし、散るからこそ花の命の華やぎが美しいことを知っています。影がなくては光もありません。その陰影に底深い意味を見出す民族でもあります。

そして日のあたらない時期をどのように生きるのか。影での働き、見えないところでの働き。内助の功。それこそが人の生き方として重要なのだと説いているのだと理解しています。

 先ほど中根東里は、学ぶことや様々な人間関係に対し、理想を貫いた人だとお話しましたが、理想を貫くときたった一人では何もできません。必ずそこには影になる人がいます。影に徹し、支える人がいます。東里は清貧な生き方を貫き、数々の著作をしたため、後世に残る名言を残しました。

私は東里を支えた影は姉であったと思うのです。この方は浦賀に嫁いだのですが、自分の母を連れて行きます。年老いてから引き取ったのかもしれませんが、いずれにしてもこの時代に嫁ぎ先で実家の母の面倒を見ているのです。東里やその弟が、女の目から見れば好き勝手に生きているのを、支え続けたのです。引き取った芳子も育てきれず、結果的にこの姉が育てています。

お姉さん、本当に立派です。この時代の日本女性としての真の働きをされた方なのでしょう。まさにやまとなでしこの鏡です。この姉なくしては、東里は自分の人生を貫いていけなかったでしょう。人間はみんな誰かに支えられて生きているのです。

(まとめ)

 さて、歴史に学ぶ・日本の開国と伊豆下田の関係というお話をさせて頂いた訳なのですが、今私たちが求められているのは、この開国という大きな歴史の転換点から何を学び、どのように今に活かすかということです。

それには先人が命をかけ欧米列強から守りぬいた、日本という国の価値が何であるのかをきちんと本質を理解しなくてはなりません。

日本の国が存在する価値ってなんなのだろうという問いかけは、私自身がそして皆さん自身が今ここに存在する価値って何なのだろうという問いかけと全く同じです。

日本の文化や精神性は、この日本の領土の中でしか、海に囲まれた小さな島国でしか生まれなかったものです。

日本という世界でも稀有な国家の枠組みの中でしか育たなかったものです。

私たちは遙かなる神代の昔から綿々と受け継がれてきた領土と文化を今後継しました。そして次の世代に後継していきます。

全てを受け継ぎ全てを繋いでいく。後継そのものが「国家の価値」だと思うのです。未来へ繋ぐことが私たちの価値であり「より良く生きること」なのです。

今日本は大きな危機の中にあります。尖閣や竹島、北方領土などの外からの侵略行為だけでなく、内部崩壊の危機にあるのです。

侵略は領土だけではありません。文化もです。独自の文化が無ければそれは独立国家ではありません。

主観的要素の強い、間違った視点での歴史を生徒に教え込み、祖国を嫌いだという反日日本人を作り続けている日教組と、文化侵略を許すマスメディアの問題。

例えば公共放送であるはずのNHKがジャパンデビューと言うドキュメンタリー番組で台湾を取材して、偏った意見だけを編集し放送しました。取材相手の台湾人本人からの抗議も起こりました。歴史を語るとき全て功罪ともに考えなければいけないはずです。ところがNHKは「罪」の部分だけ抽出しました。これが果たして日本の公共方放送の姿と言えるのでしょうか?

そして教科書採択問題。

教科書問題は、実は日教組問題そのものだと私は感じています。

昨年の11月に行われた自民党女性局の政策研究会で、私は自民党政務調査会文部科学部会長・下村博文先生の分科会に出席しました。

そこで教科書採択についての詳しい経緯を伺うことが出来ました。

教科書は表向き教育委員会が選んでいます。

選んでいるにもかかわらず、中身を精読している人はほぼいないのが実情らしいです。

何故ならば100冊くらいの教科書候補をずべて読まなくてはならないからです。

そんな面倒なことはなるべくしたくないだろうし、他のお仕事もされている方もいますから物理的に無理なんだと思います。

そこで登場するのが、教科書専門の調査員です。

調査員が調べて報告書を教育委員会に上げる、その報告書を見て教育委員会が採択するという仕組みなんです。

報告書はどんなものかというと、

A社 かくかくしかじか、こんなに良い所があります。ココもいいです、ほらこんなところも・・・

B社 こんなところは良いですよ。

C社 記述なし

これだったら、当然ですけれど良い所がいっぱい書かれたA社を選びますよね。

報告書を書く教科書専門の調査員は、社会科の教員、国語の教員等、なんと日教組の皆さんです。

(日教組に大きな影響を持つOBも含まれているとか)

つまり自分たちが使うのに都合の良い教科書を優先します。

要するに日教組にとって都合の良い記述が多いことが最前提となっているからくりです。

大東亜戦争だって日本がすべて悪だったをいう視点で書くことは可能なのです。

それがまかり通る現状に、私は強い憤りを覚えます。

客観的事実を適確に伝えれば歴史は学べます。

でも実際の教育現場には、教科書の、教師の主観的事実がかなり入っているのです。

だから漠然と日本は悪い国だという罪悪感、

贖罪感

(

しょくざいかん

)

を生徒に教え込むことが可能なのです。

そして教科書会社は採択してもらえないと商売になりませんから、教科書が改訂のたびに、日教組の都合の良いように左傾化していく仕組みになっているのです。

教科書に書いてあるから正しいということはありません。特に歴史に関しては。

現在の日本の教科書は主観的事実に偏っていて、しかもその「事実」は日本側から見た事実ではありません。

何がどうなったのかという事実のみを正確に伝えればいいだけなんです。

日本人が日本を愛せなければ、誰が日本を愛するというのでしょうか?

まずは国会議員の皆さんに、現在は開国当時よりも複雑で深刻な状況に置かれているという問題意識を持って頂き、国会で取り上げていって欲しいと思います。

国を愛する心が右翼的と言われる捻れた現状を打破しなければいけません。

君が代や日の丸が戦争賛美と言うのも間違った認識です。

戦争には善悪などありません。あるのは勝ち負けだけです。勝ったほうが正義になるだけなのです。日本は大東亜戦争にたった一度だけ負けた。ただそれだけです。

それをずっと引きずる必要などありません。日本は大東亜戦争以降他国と戦争をしていません。それは世界に誇れるべき事だと思います。長い歴史の中できちんと私たち自身が総括するべき問題であり、他国にとやかく言われるようなものではありません。

きちんと歴史と対峙する。その姿勢こそ今の私達に一番必要なものだと考えています。

そして私たち日本国民には、先人が命を賭し守ってきた領土、そして文化を次の世代に繋いで行く義務が課せられているのです。

 尖閣諸島中国漁船衝突事件、もう一昨年の事になりましたね。

私は尖閣侵略糾弾デモに参加して、ハチ公前広場でチベットのペマ・ギャルポ氏の街頭演説を聞きました。

最後にその時彼が何を演説したのかをご紹介したいと思います。

日本国が大和自治区にならないように。日本自らが国を守るという意思を明確に示すこと。今のんびり暮らしていけるのは国家があるからだ。私は難民になり50年、国家がないということがどれだけ惨めなことか。今まで先人から受け継いできたものを次の世代に必ず日本国として引き継いでもらいたい。

チベットの歴史を紐解くと文化侵略の恐ろしさ、国家侵略の狡猾さがよく理解できると思います。

今日の私の話を聞いていただいて、もし何かを感じていただいたら、どうかその思いをまず行動に移してください。それぞれのお立場でそれぞれのできる範囲で、でも必ず一歩前へ。

このことをお願いして、終わりたいと思います。本日はありがとうございました。

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歴史に学ぶ~日本の開国と伊豆下田の関係~ その2

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(ペリーの黒船 捕鯨・日米和親条約)

 世界の覇者イギリスがクリミア戦争に力をそがれていた頃、ペリーが日本へやってきます。もともとアメリカの目は日本にはなくまず中国市場ありきでした。日本に来た目的は「難破船員の保護」と「石炭・食料・水の補給」です。捕鯨の中継基地を確保する目的が主で、貿易はそれほど重要視されていませんでした。19世紀初頭からアメリカの捕鯨は急成長します。この捕鯨について少し遡ってお話をいたしますが、欧米の捕鯨の目的は灯火用の鯨油の採取で、今で言う石油などのエネルギー資源と同じです。日本とは捕鯨に対する考え方が全く違うという認識を持っていただきたいと思います。

大がかりな捕鯨は11世紀、イベリア半島のビスケー湾を起源とします。1560年代に最盛期を迎え漁場は大西洋にまで及んでいます。鯨油のもたらす利益の大きさは、鯨の乱獲へ繋がっていきます。1590年代になるとスピッツベルゲン島の漁場をめぐってイングランドとオランダが争い、捕鯨船は武装化し大きくなっていきます。1630年代後半にはスピッツベルゲンの資源が枯渇し、漁場は北大西洋に移っていきます。波の高い外洋を乗り切るために捕鯨船はますます大型化されていきます。この頃の欧州各国の乱獲により北大西洋のコククジラは絶滅します。

さてアメリカは乱獲による資源の枯渇から沿岸操業がかなわなくなり、18世紀になると船を大型化し太平洋全域に漁場を求めます。1820年代には日本周辺にもやってきます。日本周辺はきわめて資源豊富な漁場であり多くの捕鯨船が集まってきました。アメリカ式の捕鯨というのは油を採取し他はすべて捨ててしまうという完全な商業捕鯨です。捕獲した鯨を船上で解体し、皮などを釜で煮て油を採り樽詰めし、薪と水を出先で補給しながら最長4年位の航海を続けるという方式です。鯨の肉・骨・その他、すべて海洋投棄します。このように当初アメリカは捕鯨の中継基地としての役割を日本に求めたのです。

この頃イギリスは産業革命により石炭ガスなどの新エネルギーの開発から、鯨油が商売として成り立たなくなり、捕鯨は衰退しています。

ここで日本の捕鯨についても少し触れておきます。奈良時代の文献には「いなさとり」という捕鯨を意味する枕詞が出てきます。江戸時代になると水軍から発生した鯨組という捕鯨専門集団が出現します。鯨組は捕獲から解体、鯨油抽出・鯨肉塩漬けなどの他、農業資材や工芸品などの商品の加工までを行う数千人規模の巨大な組織になり、藩からの支援も受け商品は全国に流通しています。多数の労働者を抱える日本の古式捕鯨は、共同体を大切にする日本の文化が育てたものでしょう。捕鯨を生業とした地域には鯨に対する感謝から、鯨を祀る神社も多くあります。捕鯨についても商業をベースにした欧米と、共同体の利益をベースにした日本とでは全く文化が違うということがわかります。

アメリカが当初の捕鯨目的から貿易にも目を向けなくてはならなくなったのは、ロシアの脅威がありました。ロシアはアムール川沿岸をロシア領とするために中国と、また北方領土も我がものにと日本との国境問題が発生していました。この時アメリカはロシアが日本を占領した時、太平洋の貿易を支配するという危機感を持ったのです。ロシアの存在が日本に対するアメリカの政策を転換させました。

そしてペリーは2度目来航の時、浦賀を過ぎてずっと江戸湾に深く入り込み、船も前回の4隻から9隻の大艦隊でやって来ます。そして17発の礼砲の轟く中500人を超える兵士が上陸します。この圧倒的な武力を見せつけられ幕府は横浜で日米和親条約を結びます。この条約の主な内容は第2条アメリカに物資を補給するために下田と函館を開港すること。第3条漂流民の救助・引渡し。第5条アメリカ人居留地を下田に設定する。第9条片務的最恵国待遇。どうも日本は昔から9条がネックになっていますね。

 この後交渉の場を下田に移し日米和親条約附則13か条・通称下田条約を結びます。アメリカ人の遊歩区域や埋葬地、水先案内港務官を置くなどが定められます。下田の7里四方がアメリカ人が自由に歩きまわれる特区になったんですね。当時の下田町民の驚き、如何ばかりだったでしょうか。

   

(下田における吉田松陰と勝海舟)

幕末、開国、明治維新という時代の流れの中で、今でも人気がある方達…。

若き獅子3人、坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟。

この中で一番下田に縁が深いのは、吉田松陰でしょうか。パンフレットの14ページも参考にしてください。

資料にてご紹介してあります下田小学校の校歌の三番。

「南に広き下田港 平和の海に漕ぎいでて 文化の幸を求めんと 学ぶ我らの意気高し」

これは吉田松陰と金子重輔の「踏海の朝」を歌ったものだと、私は解釈しております。

下田市柿崎の弁天島から吉田松陰と金子重輔が、「文化の幸をもとめんと」アメリカ留学を夢見て、黒船に乗り込むため伝馬船で漕ぎ出したのです。若き松陰が「異文化との遭遇」を夢見て、そこから何を吸収しようとしたのかとても気になります。

吉田松陰が金子重輔と共に、下田入りしてからどのような動きをしたのか、お話してみたいと思います。

1854318日の午後二人は下田入りします。下田見物という名目で岡方屋に宿をとり、326日までは蓮台寺温泉に行ったり部屋で書物を読むなどしています。そして327日の夜決行するも謀る所成らずで、翌日自訴し就縛となります。

吉田松陰「回顧録」によれば、ポーハタン号に乗り込む時に乗ってきた伝馬船が荷物を乗せたまま流されてしまいます。

この荷物の中身も資料に記載致しましたのでご覧ください。

 色々なものが入っています。鰹節とかスルメも入っていますね。

これを見ると色々想いは巡ります。

これからアメリカに渡航をするのだ、異国で学ぶのだと夢と希望を持って作った荷物です。

ところが一瞬にして、その生きるための荷物が、松陰に死を決意させるものになってしまいました。

ポーハタン号から降ろされ、柿崎の島影に身を隠した時、彼の心にどのような思いがあったのでしょう。

これから異国の文化を吸収し学ぼう、日本のために働こうとした矢先なのです。

この荷物は身を隠した数時間の松陰の心の揺れ動きを慮る、とても情緒的な物的証拠だと思うのです。

 この後の松陰の日本での活躍はここでお話するまでもありませんね。

この時一度は死を覚悟した松陰は、自分の理想や理念を一刻も早く後継しよう、そう考えたのではではないでしょうか。

私は松陰の天命というのは、就縛後の「国家という理念を持った人材を養成する」事だったのではないか、そう思うのです。

 松陰が大義を果たそうと命をかける姿を、母の滝はどんな思いで見てきたのか。

同じ子を持つ母として心を寄せずにはいられません。母にとっては自分の命よりも、何よりも大切なこどもの命です。

それを見守り続けるという心の逞しさ、強靭さ。決して表には出ないけれども、松陰以上の大義をもってあの時代を生きぬかれたのだと思うのです。

当時の女としての役割を見事に果たした母親、滝の姿に感銘を受けずにはいられません。

私は松陰の母、滝を思うとき、本日起こしになっているでしょうか。車椅子の葛飾区議会議員・村松勝康先生のお母様、村松ミヨさんと姿が重なります。肢体不自由の勝康少年を背負い、雨の日も風の日も学校へ通わせたお母様です。母親の心の逞しさ、強靭さ、そして慈愛。お二人のお母様に共通したものでありましょう。(本の紹介)

吉田松陰が下田に来てから9年後の1863年、坂本竜馬にかかわる物語がありました。土佐藩のお殿様の山内容堂一行が江戸からの帰り、悪天候のため下田に立ち寄ります。この時に勝海舟も同様に下田に入ります。そのことを聞いた山内容堂が本陣を構える宝福寺に勝海舟を呼び寄せ、酒の相手をさせます。両者会談の後、勝海舟の手元にあった坂本龍馬の脱藩の罪は許されました。

このことが龍馬が未来へ向かい飛翔することにつながっていきます。

(安政の大津波幕府の震災対応と民間の救援活動)

さて時間を少々巻き戻しいたします。

植民地化の脅威を日本に突きつけた「日米和親条約」を締結させて、その役割を終えたペリー一行は、1854年6月1日に帰っていきました。

米国への開国をきっかけに欧米列強が日本に押し寄せることになり、イギリス、ロシア、オランダ、フランスといわゆる安政の5ヶ国条約を結ぶことになりました。パンフレットの15ページ参照

ロシアとの交渉中の1854年11月4日午前10時頃、突如大きな揺れが日本を襲います。安政の大地震です。大津波にも襲われ下田の町は壊滅します。ロシア艦隊のディアナ号も大破しました。

下田町の名主、現在の首長さんみたいなものですね、溺死します。当時の下田町とばれている区域の家は4軒しか残らず全て流されてしまっています。首長さんも含め、役人も住民も多数の命を失いました。

しかしこの日のうちに時の政府が緊急にお助け小屋を設置します。翌日の11月5日も地震と津波に襲われますが、11月6日には全壊後の下田の復旧作業、住民救済に着手します。なんと対応の早いことでしょう。

当時書かれた下田町会所文書には、『一夜を明かし目も当てられぬ次第、下田に出張していた奉行や諸役人がすぐに韮山代官所へ急用状を出し、直ちにお助け小屋を建て粥等を出してくれたので少しも不自由はなかった』という記載があります。

この翌日には町頭一同が集まり、町内の住人安否を確認し、被災者は役所と相談の上で親戚に預けられたり、幼い子どもや老人はお助け小屋で養育をすることになりました。

公儀より見舞金が被災1軒につき三分銀が支給されました。一両が四分銀ですから当座の生活に使える程度の金額だったと考えられます。そして役人から米や味噌も支給されたそうです。

ここまでが当時の行政の対応です。

どうでしょうか?東日本大震災への政府の対応をもう一度思い起こしてみてください。当時の財務大臣だった野田総理は、一刻も早く対応しなければならないときに、一貫して「増税なくして復興はなし」というスタンスで対応してきたのです。災害のために各国から寄せられた浄財もすぐに被災者に行き渡ることはありませんでした。

いまだに赤十字やユニセフで集めた巨額の義援金がどうなっているのか厚生労働省のHPで確認しましたが、不透明感はぬぐえませんでした。

被災者が本当に困るのは当座の生活費なんです。物資もお金がなければ買えません。

仙台空港が被災して使えず、空路が塞がれているとき、危険を顧みず米軍機が物資を載せて緊急着陸してくれたお陰で、自衛隊も参加し復旧作業にあたることが出来ました。

非常時には非常時の対応。その確固たる意思が無ければ政府は意味がありません。

東日本大震災で米軍や自衛隊の活躍がどれだけ国民の心を救ったのでしょうか?

感謝と尊敬の念を抱かずにはおれませんでした。

ここからは民間の救援活動です。

甲州天野伴蔵、石井村長左衛門、当町吉兵衛など当時の財界人の手によって、被災者に米や濡れ米などの食料が配給されました。お助け小屋に入った被災民は、民間援助によって日当を貰いながら、被災して崩壊した家の取り片づけの人足作業に出たということです。

女子供にいたるまでくまなく日当を貰えたので、この賃金を元手に自分たちが住むところを整える事が出来ました。

これが今から150年余前の震災対応です。

国家的規模の防災計画など無かったこの時代に、しっかりと住民は住民のやるべきこと、役所も国もやるべきことをやっていたのだと思います。

お互い様という愛するべき相互扶助の精神、日本人の道徳観、精神性を垣間見ることができます。

ここでちょっとしたエピソードをお話したいと思います。

先ほど民間救援活動で天野伴蔵という名前を出しました。

この人にかかわる「天野鍋」というお話です。

災害時には全国各地からいろいろな支援物資が送られてきます。もちろん救援物資というのはどれもこれも有難いものではありますが、下田に語り継がれているのは「鍋」なのです。それは煮炊きする鍋のことです。

甲州の天野伴蔵より送られてきた見舞いの品は、白米5百俵、鍋176個、布団500枚。白米5百俵もびっくりする量ですよね。一俵は60キロです。なんと30000キロ、30トンですよ。

イメージとしては引っ越し用の大型トラック10トン3台分でしょうか。

1俵でおよそ400食分くらいのようですから、おおよそ20万食ということになりましょうか。津波で家が流されたなら鍋もなかろう、鍋がなけりゃ煮炊きはできぬ、実に気の回ることです。

さて、この天野伴蔵さんは、当時15歳の少年です。とてもこんな判断はできません。父親の名前は海蔵といい、甲州境村の名主で裏の顔は博徒、そして黒鍬の棟梁でもありました。

黒鍬というのは今で言う土木建設業のことですから、天野海蔵さんは大手土建屋の社長さんでしょうか。

品川のお台場建設を手がけ、建材の石材を下田から搬出したお礼としての救援物資だったと言われています。

海蔵さん、当時関東一円を仕切っていた大親分、大場の久八の兄弟分でもあります。大場の久八の子分に下田の侠客、弁天の安太郎と本郷の金平がいます。任侠の世界のことです。この二人の存在が下田への救援につながったかもしれませんね。またちょっとだけ横道にずれますが、下田の侠客弁天の安太郎は、1961年の映画「鯉名の銀平」のモデルです。キャストは市川雷蔵と中村玉緒。橋幸夫が同名の主題歌を歌っていますね。そんなことで、いかにも港町ならではのエピソードでした。

(ハリスの功績 不平等条約・お吉)

安政の大地震の2年後、1856年7月、日米和親条約の規定に基づき、初代日本総領事ハリスが下田に着任し、下田の玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置されました。

それから3年間もの間下田に滞在し、日米通商条約の締結に向けて幕府との交渉に臨みました。粘り強い交渉の末、1858年6月に「日米修好通商条約」を横浜で調印。この後幕府は同様の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結びました。先ほども触れましたが、安政の五ヵ国条約いわゆる不平等条約の誕生です。

これが原因となり、安政の大獄、桜田門の変、大政奉還と大変な時代の幕開けとなります。

 どのような不平等があったのか、少し丁寧にお話しします。

先だってJRから発行された車内用の雑誌で下田の特集が組まれていたのですが、日米修好通商条約が不平等条約ではなかったという記載がありました。下田市在住の方の発言なのですが、東北新幹線ほか色々なところで目にする雑誌ですので、きちんと不平等条約の実態についてお話しておくべきだと思ったわけです。

 まず一つ目、貿易に使う通貨の換算の不平等です。日本の主張の基準は金を基本とするに対して、ハリスは金・銀・は等価で銀を基本にすると主張。銀の重さ(純度)から計算すると1ドル=一分銀一枚であるのに、ハリスの要求は1ドル=一分銀三枚でありました。図にしてありますので、そちらをご覧ください。

まず外国人商人がメキシコドル銀貨4枚を一分銀12枚に両替します。これを両替商に持ち込み天保小判三枚に両替します。これを国外に持ち出して地金として売却すればメキシコドル銀貨12枚になるといった具合です。これによって日本国内の金が大量に海外に出ていくことになりました。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしまた。

二つ目が治外法権です。日本の国内であるのに、外国の法で統治されます。領事裁判権によって多くの日本人が泣き寝入りをしなければなりませんでした。たとえば、明治19年のこと。イギリス貨物船ノルマント号事件がおこります。横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマント号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎の沖合いで難破します。その際、ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人々に救出され手厚く保護されました。ところが日本人乗客25名はただの一人も非難できたものがおらず、船中に取り残され溺死しました。

当時の国内世論は、ドレーク船長以下、船員の非人道的行為とそれに根ざす人種差別に怒りました。しかし治外法権の壁に阻まれ、検証作業も行えず、船長他全員が無罪になりました。その後世論の激しい怒りで再裁判が行われましたが、ドレーク船長に禁固三ヶ月。死者への賠償金は一切ありませんでした。開国当時、欧米列強が日本を、日本人をどう思っていたのかよくわかります。白人に対しての有色人種であり、奴隷に近い意識でいたのでしょう。今年もそういう事故がありましたね。幸いにも日本人乗客に被害はありませんでしたが。イタリア中部沖で豪華客船コスタ・コンコルディアが座礁し11人が死亡した事故です。

三つ目は関税自主権がないことです。それによって日本は自国産業を保護できず、関税収入によって国庫を潤すことも出来ませんでした。これが不平等条約でなくしてなんでありましょう。これらは全て日本の国家としての主権を侵害したものです。経済的にも国内産業の保護育成にも大きな障害となったために、明治政府は条約改正を外交上の最優先課題として取り組み、条約改正をし、真の独立国となるために国内法の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んでいったのです。

 ペリー艦隊の圧倒的な軍事力によって強制的に開国を迫られ、不平等条約を結ばざるを得ず、日本の存続のため、日本の独立のために50年の時をかけ不平等条約の解消に取り組んでいったのでした。

 さて米国の最大限の利益となる不平等条約を結ぶという成果をあげたハリスですが、親日家の一面もあったようです。ハリス日本滞在記の中で、「日本は喜望峰以東のいかなる民族より優秀である」と繰り返し云っています。また「日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と書いています。住んでいた下田についても「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにはあるまい」と記述しています。面映くなるほどの大絶賛です。ハリスが着任したのは安政の大地震の後ですから、田畑の塩害もあり作物も十分取れる状況ではなかったはずですし、インフラ整備も完全ではなかったはずです。そういう状況であるにもかかわらず、ハリスに大絶賛されたという所からも、当時の日本人の勤勉さ、誠実さ、精神性の高さを感じます。

 そうは言うもののハリスはなれない土地で、また慣れない食べ物で随分苦労し、度々体調を崩します。特に日本の根菜類は口に合わなかったらしく、唯一好きだったのがさつまいもでした。近くを通る外国船からバターなどを分けてもらっていたということなので、どんな料理を作ったのでしょう。想像はふくらんでいきます。

 このように体調を崩しがちなハリスは、幕府に対し身の回りの世話をする看護婦を要求します。それが「唐人お吉」です。唐人お吉の話は村松春水が描いた戯曲「実話唐人お吉」であり、史実とは異なる所があると思いますが、下田の歴史の1ページになっています。

 時の政府の「外交の生贄」にされた女性。ハリスが去った後のお吉の気持ちは、二人との本当の仲を知らない第三者には想像もできませんが、地元に住む私は雨が降り注ぐ下田の海を見つめながら、ぽつんと寂しげに佇んでいるお吉の後ろ姿をふと想像したりなどします。

彼女の胸のうちにあったのは異人であるハリスへの恋慕だったのでしょうか。

単なる寂しさであったのでしょうか。

それとも唐人と蔑まれた事への哀しさだったのでしょうか。

その斉藤きちの波乱に満ちた人生は、今の私と同じ年令で自ら幕を閉じました。

 それは一人の人間、斎藤きちの、勝手に独り歩きしてしまった「自分神話」への最後の抵抗であったのかもしれません。

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歴史に学ぶ~日本の開国と伊豆下田の関係~ その1

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2月18日(土)日本論語研究会での講演、関係者の皆様、

準備の段階から過分なご指導を頂きお話をすることが出来ました。

講演では話しきれなかった部分もありますので、

数回に分けて原稿をアップすることに致しました。

動画は日本論語研究会の以下のページからご覧いただけます。

http://rongoken.jp/report/report201202.html

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

はじめに

(自己紹介)

皆様、はじめまして。

静岡県下田市議会議員・副議長、自民党所属 たさかとみよでございます。

漢字で書くと田坂富代。

下田の田に、坂上田村麻呂の坂、富士山の富に、君が代の代。

学生時代は富代なんて古臭い名前だなと反発していましたが、実は下田八幡神社の宮司さまがつけてくださったお名前で、今ではとても誇りに思っています。

日本のために、郷土のために、いつでもこの命を差し出し戦ってこいという、私の生きる道を体現した名前です。

生まれ育った街、伊豆下田で暮らしていて感じた、「何かおかしい」「これは見過ごせない」と引くに引けない、憤りにも似た思いで、政治家を目指し今に至っております。

下田はお茶と富士山で有名な静岡県、伊豆半島の最南端に位置する、海と山に囲まれた小さな地方都市ですが、実は日本の開国に大きな役割を果たしたところでもあります。

今日はその下田の歴史と日本の開国をテーマに、皆様にお話させていただこうと、この壇上に登らせて頂いております。

まず講演に先立ちまして、今回日本論語研究会でお話をさせて頂くようになった経緯を、簡単にご説明いたします。

私は平成18年から、東京永田町にあります、尾崎行雄記念財団が主催している「咢堂塾」いわゆる政経塾に通っておりまして、一昨年、そこで論語研究会の事務局の高橋さんと席を並べたのがきっかけでこちらの会を知りました。そして昨年の秋からこちらに足を運ばせて頂くようになった、まだまだ新参者です。

その高橋さんのご縁から、尾崎財団の石田事務局長が昨年こちらで講演をなさいまして、今回私にそのバトンが渡されたということでございます。

折角ですので尾崎行雄記念財団の咢堂塾の宣伝も少しだけさせて頂きます。

政経塾と申しましても、松下政経塾のように年齢制限などありません。学びたいと思うどこの誰でもが学ぶことが出来る会でございます。

政治家やジャーナリストという方たちだけでは無く、いろいろな分野の専門講師を迎え講義を聞き、その後グループディスカッションという流れで進みます。

毎年5月から2月までの10ヶ月間、合宿も含め年間16回の講義があります。

2011年の咢堂塾では田村重信先生が講義をして下さり、一番盛り上がった意義深い講義となりました。

本当にありがとうございました。今後も是非、講師にいらしていただけたら有難いなと思っております。

さて…私が咢堂塾から卒業できない、やめられないわけが一つありまして。

それは、尾崎財団の事務局長の石田さんと一緒に咢堂塾を始められた尾崎行雄の三女、故相馬雪香先生の「理念」を新しい塾生にしっかり伝えていきたい、そんな想いからなのです。

相馬先生は講義が終わると必ず塾生に向かって伝えていた言葉があります。

それは「先生の講義を聞いて、ああなるほどなと思っただけで帰ってもらっちゃ困る。それを聞いてあなたがまず何をするかです」

これをずっと言い続けてこられました。

これは私が市議会議員として政治活動をしていく上で、一番影響を受けたところなのです。論語で言うところの「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」です。

学ぶことと考えること、そして行動するという事が、すなわち「生涯学習」の意味であろうと私は考えております。

本日この会場にお越しいただいている皆様方の中で、興味を持っていただけた方がいらっしゃいましたら、パンフレットもございますのでぜひお問い合わせ頂きたいと思います。

政治活動をしていく上での行動指針が相馬さんの「あなたは何をするの?」なのですが、政治活動のきっかけになった「何かおかしい・見逃せない・引くにひけない」出来事を、「開国のまちづくりと権力構造」ということでちょっとだけお話をさせて頂きたいと思います。

この後私が政治家を目指したお話をさせて頂きました。

原稿はありません。

さて、それでは本日のテーマ「歴史に学ぶ・開国と伊豆下田の関係」をレジュメにそって進めてまいりたいと思います。宜しくお願い致します。

まず初めに下田ってどういうところなのか、地理的な部分も含めまして、ざっとお話をさせて頂きます。

下田市は伊豆半島の最南端に位置しており、神子元沖は潮流が激しく岩礁も多いため航海上の難所と言われております。

現在のような、陸路が輸送の中心になったのはたった50年ほど前のことで、それ以前の主要輸送手段は海路でありました。

風が吹けば下田港に入るという風待ち港としての役割がありました。現在も避難港として海がしけた時にはたくさんの船が入ります。

また江戸初期の頃にはご番所が置かれていたこともあり「入り鉄砲出女」の監視で、江戸への海路への出入りには必ず一度下田へ入り検閲を受けました。

その当時は出船入船三千隻ともいわれ、下田が大変賑やかな港町であったと言われています。

時代は下がりまして、開国当時も交通上の理由から、たくさんの歴史上の人物が下田に上陸しています。

ペリー、ハリス、プチャーチン、吉田松陰、勝海舟、山内容堂、板垣退助、皆さんご存知の方々ですよね。

現在の下田の様子ですが、こちらに観光パンフレットを持ってきておりますのでそちらもご覧いただけたらありがたいと思います。

(黒船祭・下田会議)

さて開国の史実を元に、昭和9年より毎年5月に行われております「黒船祭」は下田の一大祭りになっています。観光パンフレットの17ページをご覧下さい。

1979年6月27日にジミー・カーター大統領がタウンミーティングで下田を訪問された際は、賑わいを通り越して町中SPだらけの大騒動といった様子だったのが今でも目に浮かびます。

カーター大統領お手植えの「ハナミズキ」の木と記念碑が、毎年黒船祭の式典が行われる、下田公園にございます。

黒船祭は米国海軍と海上自衛隊が主役です。

昨年の東日本大震災では自衛隊も米軍も震災復興支援をしていたのでやむなく黒船祭は中止されましたが、2012年の今年は、被災地である岩手県下閉伊郡(しもへいぐん)山田町の町民の皆さんをゲストにお迎えし、また米国大使や静岡県知事などもご参加いただき、盛大に行われることになりそうです。

この黒船祭が草の根の民間外交だとしたら、トップレベルの民間外交といえるのが日米関係民間会議、通称下田会議です。

その第1回が1967914日に下田東急ホテルで開催されました。

下田会議は日米両国における戦後初の民間政策対話です。

1967年から1994年まで、日米間で重要な政策課題が生じた時、継続的に開催されてきました。

日米両国のより対等で活発な日米パートナーシップ醸成の出発点となったと評価されてきたそうであります。

資料を読んでいて、1994年でなぜ中止されたのだろう?という素朴な疑問が湧いて来ました。

時の政権は、村山内閣でした。

それが昨年の2月、2011222日、新・下田会議が東京で開催されました。HPに記載されている内容をちょっとかいつまんで読んでみます。

過去10年間、あるいは民主党政権が誕生するまで、両国の指導者は日米関係はゆるぎないものと受け止めていた。

自民党政権のもとでは、実は良好な日米関係が築かれていたのですね。

私も含めてですが、そのことに日本国民は目を向けてきませんでした。

何も無いことの裏には多くの何かがあります。

国民の知らないところで、ご努力をされた方がいたはずです。

マスコミからつまらない揚げ足取りばかりされてきた自民党政権ですが、いったい私達に何をしてきてくれたのでしょうか。

残念ながらメディアでは取り上げられないのです。

政治の場にいると有権者の方が思うより、はるかに激務です。

下田のような小さな自治体にいてもそう思うのですから、国を動かされている方の働きといったらそれは大変なものだと思います。

日本という国を守るという責任が政治家にはあります。国家という枠組みがなければ、私達日本人の命は繋いでいけません。少なくとも日米関係が良好であった10年間、どんなことが起こってどんな対応を政治がしてきたのか、私たちをどう守ってきてくれたのか、今後しっかりと検証したいと思っています。

伊豆下田と開国

(開国とは)

さて、いよいよ伊豆下田と開国という話に入ってまいります。

ここからはお配りした資料の年表を参考にしていただくと、つたない私の話も何とか解っていただけるのかなと思います。

世界史と日本史を分けて学ぶ弊害だと思っているのですが、「いつの時代に世界はどうだったか?その時日本は何をしたか?」という系統立てた歴史が私自身解っていなかったこともあり資料を作って見ました。

先に結論から言ってしまうと、私は、開国とは日本にとっての初めての「本格外交」であり、そのときの無能政権が欧米列強に対し国を売り渡した「事件」だったと捉えています。

ペリー艦隊が日本にやってきた最大の理由は、日本を植民地にするためでした。圧倒的な武力の差で不平等条約を結ばされましたが、最悪な事態は回避され、日本は欧米列強の植民地にはなりませんでした。明治維新を成し遂げた志士たちによって日本は守られたのです。

そもそも日本はなぜ鎖国をしていたのでしょうか。

それは一言で言えば、キリスト教による欧米の植民地化を回避するための日本の国としての政策だったのだと思います。そしてもうひとつ、外国人商人による奴隷貿易から日本の国民を守るためだったのです。

植民地化と奴隷という最大の危機にさらされていたのが信長・秀吉の時代だったのです。だからこそのバテレン追放ですね。

鎖国政策によって日本はとりあえず安全を勝ち取ったといってもよいと思います。鎖国といってもすべての国に頑なに門を閉ざしていたわけではなく、長崎の出島をはじめ国内4ヶ所における管理貿易体制を敷いたということなのです。

そして船が入港する条件として世界情勢の情報提供を義務付けていました。

さてこの鎖国政策が採られていた200年の間、幕府の政策は全てが国内に向けられました。

その結果お金が国内に集中することになり、江戸文化が日本独自に成熟していきます。特に元禄時代には経済が急成長したことによって、様々な庶民文化が生まれました。

私の好きな歌舞伎も、元禄時代を中心に飛躍的に発展しました。

「元禄歌舞伎」という言葉を聞いたことありますよね?江戸歌舞伎の特徴は「荒事」上方歌舞伎の特徴は「和事」と呼ばれています。言葉はわからないところもあるけれど、文句なしにエンターテイメントで面白いです。

江戸時代にはその他にもいろいろな日本独特の庶民文化が生まれています。

落語や講談、浮世絵、花火、俳句。お花見や紅葉狩り、月見に雪見、行楽も盛んになるのですね。食も新しいものが生まれていますよね。江戸前寿司、天ぷら、そば、鰻にどじょう・・・。やっぱり国内が治まっている時は、文化が発展します。しかもどれもが庶民の娯楽であり、江戸に生まれた文化は諸外国に誇れる美学でもあります。

日本人の豊かな精神性、道徳性もこの時代に生まれ育まれたものだと私は確信を持って言えます。様々なアイディアが生まれ、凝り性の人達によって大きく発展した。その意味で鎖国は、日本人の精神性を高め、その上で日本独自の文化まで押し上げたとも言えるでしょう。

 この鎖国時代の200年間、下田にはどんな文化が根付いたのだろう、ということで色々調べてみましたが、行き詰ってしまいました。

それは後でお話することになりますが、安政の大津波など自然災害による資料の消失。そして港町であるが故にいつも新しい情報と新しい住民が行き交い、独自文化の醸成まで至らなかったのではと考えています。

その中で唯一お話できるのは400年余の歴史のある下田八幡神社例大祭・通称下田太鼓祭りです。観光パンフレットの18ページに写真が載っておりますけれども、これが現在のお祭りの形態です。

このお祭りは大阪夏の陣で功名をあげた、二代下田奉行今村傅四郎正長公が制定したものです。

下田は長い戦乱と度重なる災害で大変疲弊しており、民が元気になり熱く燃え、一丸となるようなものをという狙いでこの太鼓を伝えたものと言われています。

祭神は応神天皇でお神輿は関西の形態。担ぎ方は関東流。八幡さんと八雲さんのお祭りの形式がごちゃまぜです。楽曲は恐らく三河地方からのものです。時代によって変化し続ける、「伝統」を無視した継続が、如何にも港町らしい下田の文化と言えるのかも知れませんね。

鎖国したからこそ日本特有の文化が育ったというお話をさせて頂きましたが、さて開国とは一体何だったのかというお話に戻ります。それを知るには当時の世界の情勢を知らなくては解りません。

 

(当時の世界の情勢)

近世500年間の海外進出への中心となった国は、大雑把には16世紀がポルトガル・スペイン、17世紀がオランダ、18世紀・19世紀がイギリス、20世紀がアメリカと見ることができます。日本でも有名なマルコポーロは当時暗黒大陸と思われていたアジアの情報をヨーロッパにもたらし、東方見聞録によってヨーロッパの視線をアジアに向ける鳥羽口になったと言うことはあまり知られていないエピソードですよね。

現在の言葉で言えば産業スパイのような役割だったのかも知れません。実際タタール人の奴隷をアジアから連れてきたという史実も残っております。

先ずは16世紀頃の大航海時代まで遡らなくてはなりません。大航海時代と名称だけは綺麗ですが、実態は欧州の白人至上主義によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地獲得のための海外進出です。いわゆる世界の国々の陣取り合戦だったと言えば解りやすいでしょうか?自国の権益を他国の奴隷を使って増やす、他国の資源を搾取するというのが実情でした。

決して純粋な対等貿易ではなく、植民地からの富の搾取という事です。

特にこの時代に次々と他国を武力で占領し、植民地を獲得していったのはポルトガルです。

そしてヨーロッパ諸国による奴隷貿易というものは15世紀にポルトガル人によって始まりました。キリスト教布教という名目のもとに他国の国民を洗脳して植民地化。ある意味狡猾で今でも用いられている手段でもありますね。

16世紀にはポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社が設立され、奴隷を売ってもらえないイギリスが奴隷狩りを行うまでになっています。

18世紀になるとイギリスやフランスは、アフリカ大陸において武器と奴隷を交換し、西インド諸島に売却、砂糖などを持ち帰る三角貿易が始まり、さらにイギリスの産業革命の基板であった綿の紡績工業は、奴隷貿易が呼び水となり開始されました。イギリスでの銀行設立や産業革命への資本金は、この奴隷貿易で得たものであると言われています。

さて16世紀から17世紀にかけての日本は、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなどのヨーロッパ諸国に、東南アジア区域の植民地維持のための拠点として重要視されていたようです。様々な物資が日本に輸出されており、そのなかに奴隷も含まれていました。先ほどお話した植民地化と奴隷という最大の危機の背景は、こういうことなのです。

さて、開国当時の世界の覇者はイギリスでありました。この当時のイギリスが植民地支配していたアジア区域は現在のインドをはじめとして、バングラディッシュ・パキスタン・ミャンマーなどで、清はアヘン戦争での勝利でほぼ植民地化されています。イギリスが植民地政策で大きな利益を上げていると知った欧州列強はアジアの植民地化をどんどん推し進めていきます。地図に示してありますので参考にしていただければと思います。

年表を見ていただくとわかるのですが、開国当時、ペリーによる開国から15年の間は、クリミア戦争や南北戦争などで欧米が東アジアにエネルギーを集中できる余裕がありませんでした。日本にとってはそのことが幸いし、志士の活躍によって明治維新を成し遂げることが出来たのです。

意外に知られていないことですが実は鎖国といっても、あくまで日本が主体の管理貿易体制であり、外国の船が日本へ入港する条件として、世界情勢の情報提供をさせていましたので、幕府にはアヘン戦争による清国の情報は入ってきていました。強大な清国がイギリスの圧力の前に手も足も出なかったという情報です。本来は鎖国という比較的平和な状況の時にこそ、世界情勢を視野に入れたしっかりとした防衛政策を行わなくてはならなかったのです。世界の情報を手に入れておきながら、何も策を講じ得なかった。

開国とは無能政権が欧米列強に対し国を売り飛ばしたといった意味はここにあります。

さて、ここでアヘン戦争のおさらいをしてみたいと思います。

当時のイギリスはお茶などを大量に清から輸入していました。一方イギリスから清に輸出していたのは富裕層向けの品ばかりで、イギリスの大幅な輸入超過でした。

困った東インド会社は植民地のインドで麻薬であるアヘンを栽培させ清に売り銀を買います。その銀でお茶を買うというとんでもない商売を始めます。

清の麻薬中毒患者は増え続け銀の流出は止まりません。当然清は抗議するも圧倒的な武力の差で、イギリスに屈服することになったわけです。

第二次アヘン戦争後の1862年、高杉晋作は幕府派遣の一団に加わり上海を視察します。晋作の見た上海は一見すると、華やかで活気に満ちあふれていたようです。しかし現地の中国人は奴隷の扱いを受けているのを目の当たりにします。

欧米人が豊かになればなるほど、植民地の人々は貧しくなる。これが欧米列強のアジアの植民地政策、いわゆる奴隷化です。

「我が日本もすでに覆轍を踏むの兆しあり」と痛感した晋作は、志士として日本を守るために走りだしていったのでしょう。 ここでひとりの女性を紹介しておきます。お名前を野村望東尼さんといいます。高杉晋作をはじめ西郷隆盛ら、勤皇の志士たちを庇護した方です。晋作の最後も看取っています。野村望東尼の影の支えがなければ、もしかしたら明治維新はなかったかもしれません。

アヘン戦争による被害は清だけではありません。アヘンを栽培しているインドでも、現地のインド人はどんどん貧しくなります。

限られた農地は、インド人の食料ではなく芥子の花を大量に栽培しているのですから、作れば作るほど飢えに苦しむねじれた構造です。

欧米列強はこのような植民地政策で自国の利益だけを追求していきます。

その根底にあるのは白人に対しての有色人種差別。白人以外は人にあらずという考え方が根底にあったためでしょう。

これこそが植民地支配、文化侵略であり、併合とは全く性質の違うものだということを、私たち日本人は理解しておかなくてはなりません。

植民地支配とは領有権を主張するけれど、そこの住む人々は自国民と認めず、自国の利益のためだけの単なる単純労働力、奴隷のように扱われます。

一方併合は、宗主国と併合した国を同化するもので、住民を自国民として扱い、教育も公共サービスも自国民と同じように提供するのです。日本が中韓を植民地にしたと言われますが、日本は中韓の人間を奴隷扱いなどしていません。インフラを整え学校を作り教育に力を注いだというのが事実なのです。

いわゆる韓国の併合は欧米の植民地支配とは全く性質の違うものなのです。

ここを意図的に混同させようとする輩が日教組を中心に

跳梁跋扈

(

ちょうりょうばっこ

)

していますが、日本は欧米のような奴隷貿易などやってはいません。実際韓国の併合について調べても併合前のソウルの写真と、併合後のソウルの写真では文化水準度が著しく上がっているのだという事実は忘れてはいけない事だと思います。

当時の世界情勢をお話してきました。それではその頃の日本に目を戻しましょう。長い鎖国で外国からの干渉も受けずにいたため、政府が平和ボケの状態でありました。しかしそんな中にも明日の日本を憂いながらも、しっかりとした国の政策を描いた様々な集団や個人が動き始めます。それらが離合集散しながら、時には大きな犠牲を払いながらも着実にひとつの方向に向かって流れていきました。

 幕末の動乱は結果的に開国となりましたが、最終的なゴールは攘夷でありその手段を巡る戦いでした。

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ふるさと

伊豆下田発という事で今日は地元の話題を。

皆様は下田というと何を思い浮かべるでしょうか?

やはりペリーの黒船のイメージでしょうか。

161 

下田港の歴史は非常に古くて、港町として栄えていました。

西暦1636年、船改番所は大浦に移されました。廻船の江戸往復に対して、入り鉄砲、出女等のチェックをするために。

江戸幕府が諸大名の謀反を警戒して設けていた関所で、鉄砲の江戸への持ち込みと、江戸に住まわせた諸大名の妻女が関外に出るのを厳しく取り締まったのです。

陸の関所の箱根に対して海の関所の下田として。

要するに海の番人だったという訳です。

そういう長~い歴史のある街で、私、たさかとみよは生を受けました。

市会議員になったのも「下田を、日本を良くしたい」それが一番の動機です。

女性であるという事に甘えるなと言えるのは同じ女性しかいないでしょうし。

適材適所なんですよ。男女関係なく。

結果的に課長職が男性ばかりであってもいいと思っています。でも有能な女性がいるならば登用する。それが会社ならば利益の追及になるし、役所ならば住民の利益になります。それだけのこと。

何故か男性が異議を唱えると「セクハラ」の汚名着せられたり「性差別」と言われたり。

議員に性別など関係ないと思っている私は「女性市議」と呼ばれることに少しばかり違和感。

確かに下田市議会では14人の市議がいて、女性は私だけですけれどねえ。

そうは言いつつも、やはり女性が政治参加していないのは残念です。

政策方針決定過程へ参加したいと思った時に、その機会が誰にでも与えられるように仕組みだけは整えていきたいと思っています。

よく男性が勘違いなさる「女性は女性特有の感覚」があるというのは大きな間違いです。

同じ女性と言えども個性も違うし性格も違う。

女性という一括りでは語れません。

男性だって同じですよね?

4月に行われた選挙で、私が公約の一番に掲げたのは「財政問題と行政改革」でした。副議長という立場もあり一般質問もしにくい環境ではありますが、折に触れ財政に関する質疑は行なっています。下田市議会の中で財政が解るのは田坂だという自負はあります。

なぜ財政が一番なのかといえば、行政の根幹だからです。

行政の根幹が揺らいだらどうなるでしょう。

市民の生活が守れなくなります。

日本の議員として必要なのは「ふるさとを愛して守っていく覚悟」だと思うんです。

私はふるさと下田を守りたいのです。

ただそれだけのこと。

そのための選挙で選ばれた公僕だと思っているので。

ふるさとには色々なものが含まれます。

愛する家族、風景、そして「人」

心で触れ合った「人」がいなくなったら、ふるさとも消えます。

見慣れた山川…それらも、全て、なつかしき人々の体温寄り添いて、なんです。

嬉しきこと、悲しきこと、つらきこと、思い出を手をとりあって分かち合える人々がいるところ。

都会で心折れても、癒しに還っていける場所がある。それが、ふるさと。

そして、ふるさとというのは…この日本もまたそうなんです。

海外に一歩出ればそのことを思い出します。

いつでも暖かく笑顔で迎えてくれる心の置き場所。

戦地の野末に命絶える瞬間、兵士の目に甦るのはきっとふるさとと、お母さんの笑顔ですね。

その「人」を守りたいから議員になりました。

爪木崎の水仙が今見ごろです。

162 

ぜひ歴史の街、下田に足をお運びくださいね。

海の幸も新鮮で美味しいですよ。

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下田の歴史 私のルーツ その11 ハリスとお吉の話

重い話題が続いたので今回は、悲しい「ラブストーリー」などを。

舞台は私の地元伊豆は下田。ヒロインの名を「お吉」と申します。

相手役はハリスという名のアメリカ人です。

そう「唐人お吉」の物語です。

もともと、1927年(昭和2年)に村松春水が発表した『実話唐人お吉』が初めてのお披露目です。

これは斎藤きちに取材した、現在で言うノンフィクションのような本でした。

その版権を買い取った作家の十一谷義三郎が、翌1928年に『中央公論』に掲載したのが初出で、

引き続き1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけて東京朝日新聞に連載されたものです。

ノンフィクションからフィクションへ。ハリスとお吉の物語が生まれました。

その本は当時大ブームを呼び、映画化されて日本国中で有名になりました。

アメリカ人ハリスと日本人お吉の悲恋物語として。

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18567月、日米和親条約の規定に基づき、初代日本総領事ハリスが下田に着任し、下田の玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置されました。

それから3年もの間下田に滞在し日米通商条約締結に向けての幕府との交渉に臨みました。

ハリスは外国人としては初めて第13代将軍の徳川家定に拝謁し、「遠方からの書簡、又、口上、満足である。幾久しく交友したいと大統領に申し上げてもらいたい」という言葉を貰っています。

その後、幕府と根気強く条約交渉を進めた結果、18586月「日米修好通商条約」を横浜艦上で調印することに成功しました。

幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結びました。(安政五ヶ国条約)

いわゆる「不平等条約」の誕生です。

これが原因で、安政の大獄→桜田門の変→大政奉還と大変な時代の幕開けとなります。

どの様な、不平等が有ったのか、解りやすい例をいくつかあげてみましょう。

1、貿易に使う通貨の換算の不平等。

日本の主張の基準は、金を基本とするに対して、ハリスは金=銀=等価、そして銀を基本にする、重さから計算して1ドル(16匁)=1分銀(1枚)であるのに、ハリスの要求は、1ドル=1分銀(3枚)

日本はこれを飲まざるを得ませんでした。そしてそれは日本国内の金の海外流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなったのです。(幕末の通貨問題)。

2、治外法権

明治19年のイギリス貨物船ノルマント号事件が有名ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマントン号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破。

その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護されました。

ところが日本人乗客25名はただの一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した事件です。

当時の国内世論は、ドレーク船長以下、船員の日本人乗客にとった非人道的行為とその行為に根ざす人種差別に怒りました。

しかし治外法権の壁に阻まれ、検証作業も行えず、船長他全員が無罪にされました。

その後激しい怒りで世論が沸き立ち再裁判されましたが、ドレーク船長に禁固刑3か月。死者への賠償金は一切支払われませんでした。

悔しかったでしょうね。義が通らない「治外法権」は。

3、関税自主権が無い

関税はあらかじめ両国で協議して決められました。関税自主権が無いことにより、日本は自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできませんでした。

これらは全て日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の保護育成の大きな障害となったため、明治維新後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内法制の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んだという流れです。

結局、この不平等条約が解消したのは日本が日清戦争において清国に勝利した後のことです。

歴史の大きな流れを辿っていますが「ペリーによる軍事力での強制的な開国」→「不平等条約締結」→「日清戦争勝利」という感じです。

何故日本が関わる色々な戦争が起こったのか流れは見えてきましたでしょうか?大切な日本を守るためだった。それだけの事なのです。

これが日米の初めての本格外交の始まりです。

外交とは食うか食われるかの世界なのです。

だからこそ緻密に駆け引きするものなのです。

野田首相のような「のらりくらりの禅問答」は外交などとは呼べません。

その不平等条約を解消していった先人たちに頭が下がる思いで一杯です。

今ある日本の国家としての国際的な信用の高さは先人が築き上げたものです。

それを受け継いで更に良くしていくのが政治家の役割だと考えています。

先人たちの事を冒涜するような教育をする日教組。

やはり日本にとって害悪だとしか言いようがありません。

ハリスは強面の容姿とは裏腹にとても親日家の一面もありました。

『ハリス日本滞在記』の中で「私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀であることを、繰り返し云う。

日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と書いています。

住んでいた下田についても「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい」と記述しています。

面映くなるほどの大絶賛ですね。日本の文化を知った上で、ハリスは日本の近未来まで予測していました。

さて「唐人お吉」について。

下田一と評判の高い人気美人芸妓だった「お吉」が、17歳でハリスの世話人として奉公に上がりました。

病気で上手く動けなくなったハリスは、身の回りの世話をしてくれる看護婦を幕府に要求していたのです。

幕府側は日米交渉を優位に進めようと、政略をもって芸妓のお吉を送り込みましたが、そのことを知ったハリスは激怒してお吉をたった3日で帰宅させてしまいました。

ハリスの「看護婦」を「妾」と勘違いして通訳されたという説もあります。

当時はアメリカ英語からオランダ語、日本語という順番の通訳で意思の疎通を図っていましたから。

勘違い外交、早とちり外交の原型なのかも知れませんね。

要するに「外交の生贄」にされたのです。

その後、ハリスの人柄も聞かされ、改めて彼女の家族側から領事館にお願いし、奉公することになりました。

ハリスに仕えた期間はたった3ヶ月でしたが、お吉のその後は不運でした。

ハリスが去った後のお吉の気持ちは、二人との本当の仲を知らない第三者には想像もできませんが、地元に住む私は雨が降り注ぐ伊豆の海を見つめながら、ぽつんと寂しげに佇んでいるお吉の後ろ姿をふと想像したりなどします。

彼女の胸のうちにあったのは異人であるハリスへの恋慕だったのでしょうか。

単なる寂しさであったのでしょうか。

たった三ヶ月、異邦人と暮らしを共にしただけで「唐人」とののしられ蔑まれて、石持て追われるような仕打ちに対しての悲しみであったのでしょうか。

その後三島や横浜と移りました。

晩年は下田での商売がうまくいかず、酒に溺れてしまい、遂に48歳で下田蓮台寺の稲生沢川の淵に身を投じ自らの命を絶ちました。

本人同士でしか知りえないことが小説によって『悲恋の物語』として定着してしまいました。

自害は、人間、斎藤きちの、独り歩きしてしまった「自分神話」への最後の抵抗であったのかもしれません。

波乱に満ちた彼女の人生…。

斎藤きちとして彼女は幸せだったのでしょうか?今の私と同い年なのでとても気になります。

「唐人」という言葉から私はからゆきさんを連想します。

山崎朋子さんの著書『サンダカン八番娼館』で有名になりましたが、19世紀後半に、東アジアや東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことです。

この時代は貧しい家庭が、家族が食べるために、娘を売るという事が行われていました。

売春は違法ではありませんでしたから。当時の日本は。

今の感覚だと切ない話ですが歴史上の「客観的事実」として知っておくべきことだと思います。

たった150年前の話なんですよね…。

ただ娼婦=悲惨という短絡的なイメージは少し違うのでは無いのかな?と思っています。

現存するからゆきさんの写真では楽しそうな笑顔で写っているものが数多く残されていますし。

なんといっても毅然とした和服姿で、あの時代を生き抜いた逞しさが感じられます。

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ですので、慰安婦問題を語る時に、「かわいそう」とか「悲劇」とか頭から決め込んで語るのは間違いだと思うのです。

貧しかった朝鮮人の娘さんがお金のために自分から娼婦になったとしか言えません。

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1933630日「東亜日報」

記事では金神通という少女を誘拐した朴命同が618日に鐘路署の警察官に逮捕されたことが記載されています。

朴命同は少女を誘拐し、中国人に売ろうとしていたようです。

犯人は誘拐の常習犯だったとも記載されています。

つまり今日本が汚名を着せられている「従軍慰安婦」というのは実際は朝鮮人の人身売買だったというのが真相なのです。

1933年は昭和8年で日韓併合されていた時期なのです。

韓国人の方たちはそこのところをどう思っているのでしょうか?

いえ、思うも何も客観的な事実経過は何も知らされぬまま、一つの「悲劇」が意図的に流されひとり歩きさせられているのでしょう。

そう、唐人お吉の物語のように。

歴史上の事実を、物語という名の神話でくるむのが許されるのはフィクションの中でだけのこと。

こと外交においてはフィクションは厳しく排除されねばなりません。

単なる事実に、ことさら悲劇的な情緒をまとわりつかせた「悲劇・慰安婦物語」に日本人も韓国人も騙されてはなりません。

先の記事で述べた狡猾な韓国大統領のやり方も又外交の一つなのでしょうね。

他国との友好は大切ですが、確固たる国家観を持ち、日本の国益のために外交を行うというのが、日本の政治家の基本なのでは?

私は下田シリーズを書き継ぎながら、「ペリーの黒船」の本質のようなことを考えていました。

黒船を調べているうちに高橋是清という人物にも遭遇し、後に総理になったこの方が白人の奴隷商人に売り払われた史実にもぶつかりました。

下田は本当に歴史への入り口ですね。

開国からの歴史の流れを現存資料を基に辿るうちに、大東亜戦争の本質も、ある意味アジア圏の奴隷化を目論んだ「黒船の再来」だったのではないかと思うに至りました。

それはまだ未熟な私論なので、もっと勉強していずれ発表させていただきますね。

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下田の歴史 私のルーツ その10 開国とは1 鎖国政策の意義と江戸文化の成熟

今日から「開国」について、少しずつ書いていきたいと思います。

そもそも開国とは一体何だったのでしょうか。

前回のエントリー「開戦記念日によせて」に、

ペリー艦隊が日本にやってきた理由は、日本を植民地にするためでした。

圧倒的な武力の差で不平等条約を結ばされましたが、

明治維新を成し遂げた志士たち侍は命をかけて日本を守りきりました。

と、書きました。

私は、開国とは日本の初めての本格外交であり、そのときの無能政権が欧米列強に対し国を売り渡した事件 だったと考えています。

ただ最悪は回避し、日本は欧米列強の植民地にはなりませんでした。

しかし不平等条約締結で、日本のお金が欧米列強に、どんどん吸い上げられていったのですよね。

当時の米国大統領フィルモアは現在のオバマと一緒で、米国は日本よりも中国・インド市場を見ていたのでしょうから・・・。

私には現在の民主党政権が教科書・メディア・TPPと諸外国の言いなりになっているのと

同じように感じられます。

日本のことを考えるなら、外交の駆け引きをして、

日本の国益を最優先にして交渉に臨むべきなのです。

例えば教科書問題も中韓の言いなりになる必要はありません。

日本の視点で歴史教科書は書くべきだし、そもそも日本は「国定教科書」ではないのです。

たくさんの文科省検定済み教科書からいくらでも選択の自由があるのです。

中国、韓国は「国定教科書」です。

一つの教科書だけで国に押し付けられた教育を国民にしているんです。

国益のために日本の歴史をねじ曲げ反日教育をしている中韓に、

考慮する必要など皆無です。

日教組はそこをどう考えているのでしょうか。

放送のメディアもそうです。報道の自由が放送法で規定されています。

ところが公共放送であるはずのNHKが一番日本の毀損、日本貶めをしています。

視点の偏りは公共放送にあってはならないはずです。

公平に色々な角度から問題を取り上げて「客観的事実」を提示し視聴者に考えてもらうというのが、公共放送の役目のはずです。

ドキュメンタリーなどで、NHKの「主観」を視聴者に押し付けるのは、

受信料を徴収して、日本国民がスポンサーであるNHKにはあってはならないことです。

この問題は先に上げた「韓国の異常なまでの持ち上げ」にも関係していますので、

別記事にアップする予定です。

皆さんはどう思われますでしょうか?

そもそも日本は何故鎖国をしていたのでしょうか。

私は、一言で言えば、キリスト教による植民地化を回避するための政策だったのだと思います。

要するにあの時代はキリスト教を隠れ蓑に、諸外国が国盗り合戦をしていたようなものです。

世界史を学習すると解りますが、数多くの外国の戦争は宗教上の事によって起きています。

宗教観が違えば争いはおきます。これは現在にも通じる「客観的事実」なのです。

鎖国したことによってポルトガル、オランダや中国等のごく限られた国と、

長崎の出島での交易になったというのは歴史教科書(あてにならないか・・・)で

学んだ通りだと思います。

本来はそこから情報を得ながら、軍事に備えなくてはならなかったのでしょうが、

平和ボケしてしまったのでしょうね・・・

今の日本と妙にリンクします。

ただし鎖国をしていたからといっても一切の交易を止めていたわけではありません。

八代将軍徳川吉宗が実学を奨励してキリスト教以外の洋書を解禁した結果、

出島からもたらされる書物は、日本の医学などの研究を促進させました。

和魂洋才の始まりです。

日本古来の精神を大切にしつつ、西洋の技術を受け入れ、両者を調和させ発展させることが出来ました。

そして蘭学を通して合理的な思考と自由や平等の思想は、

幕末の日本にも大きな影響を与える結果となりました。

開国当時には日本を守るために命をかけて戦った侍がいました。

今命をかけて戦っている政治家はいるのかな・・・

いました!宇都隆史参議院議員。

昨年の参議院選挙の時の動画ですが、彼の想い、私には熱く伝わります。

http://www.youtube.com/watch?v=MA9DHjhr2KQ

さて、この鎖国政策がとられていた200年の間、

幕府の政策は全てが国内に向けられました。

その結果お金が国内に集中することになり、江戸文化が日本独自に成熟していきます。

特に元禄時代には経済が急成長したことによって、

様々な庶民文化が生まれました。

私の好きな歌舞伎も、元禄時代を中心に飛躍的に発展しました。

「元禄歌舞伎」って聞いたことありますよね。

そういえばあてにならない教科書にも出てました。確か。

江戸歌舞伎の特徴は「荒事」http://kabuki-bito.jp/special/lixil/08/

上方歌舞伎の特徴は「和事」と呼ばれています。

言葉はわからないところもあるけれど、文句なしに面白いです。

江戸時代にはその他にもいろいろな日本独特の庶民文化が生まれています。

落語や講談、浮世絵、花火、俳句。

Hanabi

お花見や紅葉狩り、月見に雪見、行楽も盛んになるのですね。

Sakura

Momiji

食も新しいものが生まれていますよね。

江戸前寿司、天ぷら、そば、鰻にどじょう・・・。

ああ・・・浅草に行きたくなってきます。

やっぱり国内が治まっている時は、文化が発展します。

しかもどれもが庶民の娯楽であり、江戸に生まれた文化は諸外国に誇れる美学でもあります。

日本人の豊かな精神性、道徳性もこの時代に生まれ育まれたものだと私は確信を持って言えます。

様々なアイディアが生まれ、凝り性の人達によって大きく発展した。

その意味で鎖国は、日本人の精神性を高め、その上で日本独自の文化まで押し上げたとも言えるでしょう。

イザベラ・バードが明治初期の日本に来たことを書いた

「日本奥地紀行」でその一端を知ることができます。

普通の外国人から見た当時の日本が一体どういうものであったのか?

それを知ることも必要なことだと思います。

ぜひお読み下さいね。お勧めです。

=お知らせ=

2/18(土)日本論語研究会で、講師をさせて頂くことになりました。

お時間のある方はお出かけ頂けると嬉しいです。

(そうは言いつつも、ものすごいプレッシャーですsweat01

日本論語研究会 第79回

1、日 時 2月18日(土)16時00分開場、16時30分開始~18時 

※当初の日程が変更になりました
2、場 所 慶應義塾大学 三田校舎 2B23(南館地下2階、正門階段を上り一番左の新しいビル)
3、講 師 田坂富代(静岡県・下田市議会副議長)
     (テーマ、「歴史に学ぶ・日本の開国と伊豆下田の関係」)

動画はこちらです

  

http://www.youtube.com/watch?v=yTY7bT3AjaQ

2月18日(土)16時00分開場、16時30分開始~18時

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下田の歴史 私のルーツ その9 下田出身の儒者・中根東里 3

施して報を願わず

受けて恩を忘れず

(意味)

人に施しや親切を行なっても、そのお返しを願ってはいけない。

また施しや新設を受けた時には、その恩を忘れてはいけない。

忘れずにそれに報いるための努力をすることだ。

たさかとみよ公式ホームページ トップページのフラッシュぜひご覧下さいね。

平成のKOキングと呼ばれた坂本博之さとの2ショットには「施して報を願わず」が、

そして車椅子の区議会議員村松勝康さんとの2ショットには「受けて恩を忘れず」を入れてあります。

何故この二人なのか、i色々考えていただけたら嬉しいな。

私はこのお二人を、本当にしなやかで強靭な方だと思っています。

さて、昨日から下田市議会12月定例会が始まりました。

一般質問は災害対策に関する質問が出ます。

やはりというか、当然、東日本大震災の影響です。

この震災でお亡くなりになられた方々、

そして今まさに「復興」に立ち向かい勇敢に戦っている被災された方々に、

私には祈ることしかできません。

政府として国がどういう対策をとっているのかという事もとても気になります。

ニュースで聞く限り「復興庁」設置法案がようやく決まりそうですが、ジシンから花月。

遅い対応と私は思います。

(なぜ遅くなったのか、過去のエントリー宜しかったらご覧ください。)

どうか安らかに、どうか一刻も早く復興されますように・・・。

東日本大震災というと、私にはこのニュースを思い出します。

東日本大震災:台湾のチャリティー番組で義援金21億円超

http://www.youtube.com/watch?v=pIlQEIfjd9Y

台湾には「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」という精神を美徳として持っています。

困ったときに助け合う、人間として当たり前のことです。

日本がこの危機を乗り越えることが何よりです。

今被害に遭われている日本の皆さんの無事を心から祈ります。

そういう番組メッセージでした。

困ったときはおたがいさま

(故相馬雪香先生が、いつも言っておられました)

東日本大震災の直後に、台湾はすぐさまチャリティー番組を放送し、

官民上げて巨額の支援をしてくれました。

台湾の国民の心、とても有難かった。

1999年の台湾大地震のとき、日本はすぐ官民あげて応援しました。

でもそのときの恩義を忘れずに、それ以上で返してくださった台湾の皆様の熱い気持ちを

私たちはしっかりと受け止めなければなりません。

台湾をはじめ、先だって日本を訪問していただいたブータン、トルコ、タイ、パラオ等、

親日の国家が世界に多いことに心から感謝します。

全て先人であるたくさんの「日本人」が築き上げた「信用」という名前の財産なのです。

国際的な信用は一夕一朝では得られません。

たゆまぬ先人の努力や日本人の心が諸外国に伝わっているのだと思います。

この記事を書いていて、ふと思いだしたのがSoftBankのCMと孫正義社長。

SoftBankの孫正義社長は以前は華僑系と自称していましたが、

実は朝鮮系帰化日本人です。

反日国家の人がCMを作ると、日本の家族はお父さんが犬になってしまうのですね。

私は韓国語、全くわかりませんが、

ケセッキ(犬の子)というのは、「この糞野郎」という意味なんですって?

黒人タレントのダンテ・カーヴァーさんや、上戸彩ちゃん、

犬の子ですから「糞野郎」なんでしょうか・・・。

表向き可愛い犬だねなんて思っている人を見聞きすると、

裏の意味を考えて欲しいと思います。

偶然が集まったものは必然となるのですからね。

朝鮮系企業は反日なんですから当たり前といえば当たり前かもしれません。

でも人としての品格、疑問視せざるを得ません。

特に孫正義社長が韓国で「日本は犯罪者になった」と「世界に謝罪した」事が、

韓国や日本でニュースになるのは変なことだと思います。

だって、彼は単なる一介のビジネスマンであって、

政治家でも日本人の代表でもないのだから。

イ・ミョンバク韓国大統領との会談もおかしな事です。

私はいくら韓国の反日教育に憤りを持っていても、

韓国の国旗を踏みつけたり、燃やしたり出来ませんよ。

国旗はその国の国民、一人ひとりなのですから。

国会で演説された若きブータンの国王の品格を思い出すと、

素直に頭を下げずに入られません。

改めて今思うことは、日本の周辺には反日国家があるんだという事実、

反日教育を施すことで国民の悪意を日本に向けている「国家」があるんだという事実。

反日教育を受けている人がメデイアを始め、

日本の社会にまりすまして入り込んでいるんだという事実を、

私たちはきちんと認識しなくてはならないということです。

その上での外交であり民間交流なのです。

そして一番の問題は日本人自身が日本人を反日教育しているということです。

日本人の精神性や日本人らしさをなくすような、

内部崩壊直前の日本なのだという危機感をもって、

教科書採択問題に取り組みましょうよ!

少なくとも自民党の政治家の皆さんは・・・。

誇りを忘れた日本人は日本人とは言えません。

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下田の歴史 私のルーツ その9 下田出身の儒者・中根東里 2

出る月を待つべし

散る花を追うことなかれ

(意味)

人生において、歓喜の瞬間は短い。大切な人との別れも必ず来る。

しかし、桜は散っても月は必ず出てくる。

それを待つ時間をどのように生きるかが「人」である。

リニューアルしたHPのフラッシュ、私のお気に入りです。ご覧頂けると嬉しいです。

中根東里がこの言葉を残した時、彼はどんな状況だったのでしょうか。

東里は晩年を下野国佐野(現在の栃木県とほぼ同じ領域)ですごします。

泥月庵という庵を結び、王陽明の「伝習録」を講義していました。

磯田道史先生によると、「東里の講義は、まことに実際的でわかりやすかった。

身近なことを入れて話すので、高尚なことを語っているのに、難しく聞こえない」

だそうです。

東里先生、私、先生を心から尊敬します!

小難しい言葉を難しそうに語るのはさほど困難ではありません。

平易な言葉で人に伝える。

それがとても大切な事です。

私の議会での一般質問や予算審議での質疑において、

市民の皆さんに解りやすいようにお話できているのかと振り返った時、

全然ダメなんですもの。

特に財政問題を取り上げることが多い私は、

財政用語や行政用語など一般社会ではあまり使われない言葉を使います。

使わないと質疑にならないのですけど。今の一番の課題です。

「聖人の学は、何も難しいものではない。

ただひとつのことがわかればよい。」

東里は、天理万物一体の理(ことわり)が解ればそれで良い、と言ったそうです。

そんなふうに優しく人に寄り添うように講義をされていたとするなら、

人気が出ないわけがありません。慕われないわけがありません。

貧しいながらも塾は盛況だったようです。

そんな時、東里の弟が娘をあずけに来ます。

そのいきさつは、東里の弟は四十過ぎに妻を迎えることが出来ましたが、

妻は女の子を生んですぐに死んでしまいました。

もらい乳をしながら育てたがあまりに頻繁で断られてしまいます。

乳に変えて粥を食べさせるなど、亡くなった妻の母と育てたようです。

その子が3歳になったころ義母も亡くなり途方にくれ、

もうどうにもならないというところで、東里をたよりその子を預けたのだそうです。

東里のところに預けた女の子、名を芳子といいます。

その頃の東里は村の人々の信頼も厚く、村の人々が家も建ててくれ、

(どんなに東里が村の人々に敬われ、慕われていたのかが解るエピソードですよね?)

そこでこの芳子を育てていきます。

東里は五十三歳、いつ自分が死ぬとも知れない。

自分が死んだら芳子はどうなるのか、そんな事を考えていたときに浮かんだのが、

出る月を待つべし

散る花を追うことなかれ

だったのだそうです。

東里は芳子の人間教育のために「新瓦」という本を書きます。

教育者として親心の全てをこめたのでしょう。

さて、東里先生について前回このように書きました。

中根東里という人は、学ぶことや、様々な人間関係に対し、

理想を貫いた人物なのだと思いました。

理想を貫く時、たった一人では何も出来ません。

必ずそこには影になる人がいます。

影に徹し、支える人がいます。

清貧な生き方を貫き、数々の著作をしたため、後世に残る名言を残した中根東里。

私は東里の影は、姉であったと思うのです。

この方は浦賀に嫁いだのですが、自分の母を連れていきます。

年老いてから引き取ったのかも知れません。

いずれにしても、この時代に嫁ぎ先で実家の母の面倒をみているのです。

東里やその弟が、女から見れば好き勝手に生きているのを、

影で支え続けたのです。

芳子も東里は育てきれず、結果的にこの姉が育てているらしいです。

お姉さん、本当に立派です。

この時代の日本女性としての真の働きをされた方なのでしょう。

まさにやまとなでしこの精神。可憐で繊細だけど、心は強い。

この姉なくしては、東里は生きていけなかった。

みんな誰かに支えられているのですね。

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下田の歴史 私のルーツ その9 下田出身の儒者・中根東里 1

プロローグでもご紹介した下田小学校の校歌。

二番歌詞

愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて

永遠に輝くいさおしの誉れも高き我が下田

ここに出てくる「東里」は、下田出身の儒者(陽明学者)です。

未だによく分からないのですが、論語=古典 陽明学=新派

そんなイメージです。(どなたか図に書いていただけると有難いです。)

校歌を歌っていた小学生当時は、東里?とーりって何?どこの通り?(銀座通りみたいな)

その程度の理解で、小学校開校100周年イベントの際に、

下田出身の陽明学者だというだけ教わった記憶がうっすらとあります。

その後大人になってから、肥田佐左衛門さんの本で、ある程度中根東里の概要を知りました。

それが昨年(2010年)の2月、文藝春秋に3回にわたり中根東里の特集記事が掲載されていました。

茨城大学の磯田道史さんがお書きになっています。

「絶後の詩才を讃えられながら、身を隠すように生きた清貧の儒者がいた」

第1回目はこんなサブタイトルです。

この特集記事を読み進めていくと何故か知らないうちに私の目から涙が溢れてきました。

サブタイトルの文字はは、書家の佐藤青龍先生のようです。(既にここで涙)

夜ごと酔父を迎えに・・・・まるで私の幼いころみたい(ほろ苦い懐かしさもあり)

中根東里という人は、学ぶことや、様々な人間関係に対し、理想を貫いた人物なのだと思いました。

虐待される子に涙

人の人生にはどうしてもかかわれない部分があるという、人間としての哀しさも経験した記述のところでは、

私は暫くテッシュペーパーの箱を手放すことが出来ませんでした。

何も出来ずネグレクトの子供を見続けた経験がある私とっては、

とても身につまされる部分なのです。

その当時は議員の職になくネグレクトに関する知識も経験も足りなかったために、

遠くから見守り続けることしか出来ませんでした。

青少年育成協議会のメンバーに知り合いがいたので、

あの子大丈夫ですか、どうか気にしてあげてください。

そうお願いするしかなかったのです。

幸いその子供は頑張って生き抜きました。

苦しいところを自力で歩んだその子は、とても素晴らしい「生きる力」を今も持っています。

私が政治家として子育て支援よりも、児童虐待に取り組みをシフトした理由はそこに原点があります。

今の日本で、ネグレクトで命を失うかも知れないその子を、人間としてどうして放って置けるというのでしょう?

お腹をすかせて餓死しそうな子どもにに、親にお風呂にさえ入れてもらえない衛生状態の悪化した子どもに、

市町村レベル、県レベルで救いの手を差し伸べなかったら最悪の結末を迎えてしまう可能性があるのです。

子どもは自分で親を選ぶことが出来ません。

だからこそ緊急避難させられる「政治的な力」が必要なのです。

「おまえ、うちの子になれ!」

「あたしをかあちゃんと呼べ!」

ゆきの、おと 井沢満著 より

(とても素敵な本です、読んでくれたら嬉しいです)

今現在の私にできること、

それは政治の場で、問題解決の糸口を探し、具体的に何が出来るのかを考え、

そのための予算をつけることです。

正しく言えば、一地方議員として限りある予算の中から効果的な政策を示し、

子供を死なせないための予算を付けさせる、ですね。

これしかありません。

・・・・中根東里について書くはずが、私の想いが溢れてしまいました。

これから何回かにわけて、書いてみようと思います。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

最近、HPリニューアルしました。

勉強会でご一緒していただいている方が、

偶然つぶやいてくれた中根東里の言葉。

*施して報を願わず、受けて恩を忘れず。

*出る月を待つべし、散る花を追うことなかれ。

を、フラッシュの下に入れてもらいました。

よろしければそちらもご覧ください。

http://www.geocities.jp/tasakatomiyo/

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