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今夜は十五夜さん  「出月を待て」

今日は中秋の名月、陰暦8月15日でした。

綺麗なお月様でしたね。
このお月様のことを「望月」と言うのだそうです。
私の母方の家は望月という姓で、家紋は九曜。
なるほど、家紋もまん丸です。

Kuou

今夜は我が家も、ささやかなお月見をしました。

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杯は靖国神社で頂いたものです。
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桜の意匠が素敵です。

月見は平安時代から始まった習慣だそうですが、当時は月そのものを見るのではなく、
水面に映った月を観賞したのだそうです。
なんとも風流ですね。

私たちの子供の頃は、お月見は楽しいものでした。
おばあちゃんのお手伝いでお団子をこさえたりしました。
「お月様が食べたら、食べてもいいよ。」というおばあちゃんの言いつけを守り、
月が早く出ないかと待ちどおしかったことを思い出しました。子供たちはみんな、出月を待っていたのです。

家人とこんな話をしながら、ふと下田の偉人で清貧の陽明学者・中根東里のこの言葉を思い出しました。

以前こんな記事を記しましたので、改めてご紹介いたします。

「出る月を待て、散る花を追うことなかれ」です。
この言葉は東里の弟の経済的困窮から、その娘の芳子を引き取り養育していた頃のものです。
当時東里は53歳です。いつ自分が死ぬかもわからない。自分が死んだら残された芳子はどうなるのか、そんなことを考えていた時に浮かんだ言葉だったようです。
人生において、喜びの瞬間は短い。どんなに大切な人との別れも必ず来る。しかし、桜の花は散っても月は必ず出てくる。それを待つ時間をどのように生きるかが「人」である。こんな意味でしょうか。
物事には全て終わりがあって始まりがある、私はそんなふうに理解をしています。
桜の花が潔く散っていくように、けじめを付けて終わらせなくてはならない事、終わる時期が来た事はすっきりと跡形もなく終わらせるのがよいのです。終わらせないと次の段階に進むことが出来ません。
潔く終わらせるという発想は、ともすれば歪んだ左翼思想の持ち主から「戦争賛美」だの「特攻隊美化」だのと言われそうですが、潔く終わるということも又日本人の美意識に根ざした思考であると考えています。
散る桜を愛おしく思う感性、四季折々の木々の佇まいに美しさを見出す感情こそ、四季に恵まれた日本独特の感性ではないでしょうか?
夏は蝉時雨、秋は落日、冬は冴え冴えとした朝の空気、春は散る桜。四季のめぐりに心を寄り添わせながら、日本人は心を研ぎ澄ませ、繊細な感性を四方の海に護られながらその特有の感性を育んできました。
一つ所にとどまらない四季の移ろいは、日本人の心に陰影を添えます。
永遠などこの世にはないのだという無常観。決してネガティブな意味での無常ではありません。
全ては移ろい、全ていずれは、滅すると言う達観。日本人なら誰もが心の根底に持つ悟りといってもいいかもしれません。
繁栄の隣には衰退が、輝かしい生命のかたわらには死が、光のそばには影が寄り添っていることを感覚で知っています。
日本人特有の物事への淡白さ、潔さはすべてを明らかに視るという意味での「あきらめ」でもあれば、又独自の美意識でもありましょう。
咲き誇る花が美しいのは、やがて散る定めにあり、しかし、散るからこそ花の命の華やぎが美しいことを知っています。影がなくては光もありません。その陰影に底深い意味を見出す民族でもあります。
そして日のあたらない時期をどのように生きるのか。影での働き、見えないところでの働き。内助の功。それこそが人の生き方として重要なのだと説いているのだと理解しています。

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