« 韓国漁船だって海保は助けます | トップページ | 地域政策の憂鬱 »

歴史に学ぶ~兵学者・吉田松陰 その4

 江戸での学びもこれでもかというほどの、強行スケジュールで行われました。
その合間に親友の宮部鼎蔵と、安房・相模の沿岸部を小旅行しています。
この時の松陰の日記は失われてしまったようですが、旅を共にした宮部の日記には次のように記されていました。
「土地の遠近を測り、水陸の地形を知るは、兵学において最も緊要である。近年の防衛を論じる者は、その述べるところ憶測であって、自分で実際にその地を訪れずに空論をなしており、軽々しくて注意が足りない。このようでは、有事の際にそれが筋道に適っていると期待することは難しい。」
共に旅をした松陰も、同じような思いをもったことは、想像に難くありませんね。
この宮部の考え方は、現在にも通じます。
日本の防衛を論ずるとき、海を外すわけにはいきません。
海が国境となっているのですから当たり前ですが。

 松陰は江戸での忙しさが一息ついた頃に、
「林復斎や佐藤一斎などは、戦争について口にするのも忌み、ただただ西洋は有害であるとしている、とるべき態度ではない。安積良斎や山鹿素水などは西洋から学ぶべきことはないとしながらも、防御の論は必要だとしている。古賀茶渓や佐久間象山は西洋から学ぶべきことが多いとして、しきりに研究している。これらを総合して習練すれば面目を一新できるのではないか。」
と、叔父の玉木文之進に手紙を書いています。
これがいかにも松陰らしいですね。
というのも、少し先の話になりますが、野山獄中での講孟余話の講義の冒頭、次のような話をします。
まず『孟子序説』を論じて、「経書を読むときに最も重要なことは、聖人や賢人に追従しないことである。少しでも追従の気持ちがあると、道をきちんと理解することができず、学問をしても益より害がある。」
江戸に遊学していたときから、師と仰ぐ者にさえも、厳しい目を向けていたことが窺えます。
ある意味松陰の天邪鬼な性格が、大成する元になったともいえるのではないでしょうか?

 さて、記事冒頭の宮部との小旅行を終えた後、松陰は東北遊学のための暇乞いを行い、早速許可が下り水戸、仙台、米沢、会津などへ兵学修行に出かけようとしていました。
そしてこの時、江戸遊学中一番大きな影響を受けた、佐久間象山に入門しました。
佐久間象山との出会いは、後の松陰の運命をも左右することになろうとは、この時の当事者は誰も考えてはいなかったでしょう。

:::::::::::::::

 ここまで吉田松陰を書いてきて思ったことは、藩侯・毛利敬親がいかに松陰を大切にしてきたかということです。
このことについてはまた触れようと思っています。
 敬親は、長州藩の第13代藩主で、幕末の混乱期にあって、有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護することで、窮乏していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物といわれています。
わずか18歳にして藩主となったのですね。
 年齢を問わず立派な政治家の下には、多くの人材が育っていきます。
現在国政において、影に日向に活躍している人物は、立派な政治家の下で指導を受けたのかもしれません。

こちらもぜひご覧頂けると有難いです。m(_ _)m

                 ↓ ↓ ↓

「政治の仕事は、未来へつなぐこと。」

下田市議会議員たさかとみよホームページ 

いつもクリック有り難うございます。

皆さんのクリックがとっても大きな励みです。

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

|

« 韓国漁船だって海保は助けます | トップページ | 地域政策の憂鬱 »

歴史に学ぶ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 韓国漁船だって海保は助けます | トップページ | 地域政策の憂鬱 »