« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

国旗を背負う意味

ブログランキングに参加しています。 

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

このところ拙ブログでは、にわかに「国旗・君が代」が話題になっています。

以前の記事のNHKから消えた日の丸と君が代でのコメント欄です。

http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/nhk-6c14.html

非常に大切な事が含まれているので、コメントにきちんと私の意見を述べたいと思い記事にしました。

以下コメント欄から現役の教員の方からの投稿です。

「偶然、このサイトに目がとまりました。私は愛知県で教員をしています。いま大阪で起きていることに心を痛めています。私は1970年代前半に高校時代を送り、以来「君が代」を歌ったことがありません。今でも学校での行事では起立しても、「国歌斉唱」では口をつぐんでいます。理由は...もっともわかりやすい答えは「アジアの人々への思い」です。第2次世界大戦において、「君が代」と「日の丸」は、多くのアジアの人々には侵略軍のシンボルであり、それは内面では受け入れがたいものだったでしょう。それは侵略されたものの内面を考えれば、自然に想像できることです。現代では、アフガニスタンやパレスチナなどの人々が米国や旧ソビエト、イスラエルをどう思うかを考えればすぐわかることです。

いま、一般論として国歌・国旗をどう考えるかは自由です。デザインや歴史を誇り、美的であると思うこともうなずけます。しかし、私には過去の歴史をどのように考えて君が代を歌い、日の丸を仰ぐのか、高校生以来ずっと解決しない問題です。若い先生たちが、素直にあるいは無邪気に君が代を歌う姿を、私は不思議な感覚で眺めています。生徒たちはもちろん、なんの疑義もなく歌っています。

そんな中、これまでこの問題は、これほどの議論はされなかったのでしょう。しかし、今になって大阪や東京でこのような事態が続いていくようならば、私にはとても耐えられない気持ちです。愛知にも問題は飛び火し、口をつぐむものは、処罰されるのでしょうか??

このような人間もいることをお伝えしたく、ここに投稿いたしました。」

卒業式・入学式で「国旗掲揚・君が代斉唱」を拒否するとんでもない輩が、うようよと湧き出てくる季節だからでしょうか、こんなコメントも頂戴したりして、そのコメントへの拙ブログ常連読者さんからの反論などもあり賑わっています。

そういえば今月23日に「議場に国旗掲揚」を可決というニュースがありました。

http://sankei.jp.msn.com/region/news/120323/ngt12032320130004-n1.htm

現在の石井直樹下田市長が就任する前は長く革新政権が続いていたためか、庁舎に国旗を掲げていなかったのでした。

記憶の糸を手繰っていくと、国旗国歌法が制定されたのだから庁舎に国旗を掲げると言った市長に対し、共産党議員が詰め寄ったり職員組合とも揉めたのではなかったかと思います。

現在は青空高く日の丸あげてと、たなびいております。

2102_3

下田市議会の議場には国旗や市旗を掲げていません。

やはり強い革新与党とヘタレ保守が長く続いたせいなのでしょうか。

議場に国旗や市旗がないことに疑問を感じていなかった私も、相当なヘタレ保守です。

深く恥じ入るばかりです。

このニュースの肝は、公共の場所に国旗を飾るのをわざわざ決めないと掲げない、或いは掲げられないという事のおかしさです。

国旗というのは国家や国民を体現したものなのですから、ごく自然にいろいろな場所で掲げてあっていいはずのものなのに。

日本の国旗を掲げて公道を歩くとなぜ右翼と言われるのでしょう?

私には全く意味がわかりませんね。

地方自治という職に関われば関わるほど、地方だけでは無く、日本という国家を意識します。

私達の身近な事業・公共サービスは、日本という国という枠組みの中で、国家が安全であるという前提のもとに成り立つものなのですから。

少なくとも私たち議員や公務員というのは「国家や国民を体現した」国旗を背負う気持ちを持たなければならないと思っています。

国民(市民)の税金から給料や報酬をもらっているのですから、国を、故郷への覚悟を背負う気概なくして議員や公務員は勤まらないはずです。

ですからコメント投稿者の教育公務員としての「甘え」に正直反吐が出ます。

あなたの主義主張を貫くのなら公務員など辞めるべきでしょう。

塾であれ予備校であれ教育は出来ます。私学に移るのも手段でしょう。

教育公務員という安定した地位にいての「個人的な政治見解」など出すべきではありません。学校に於いて生徒に学則を要求するのであれば、教師も文科省の指示に従う義務があるはずです。個人の考えと公共の考えを分ける事が必要だと思います。

今、私は自衛隊の事を思うと、安定した職場環境で、個人の主義主張を貫くコメントの方に怒りさえ覚えます。。

今自衛隊はPKOという名のもとに南スーダンという紛争地帯へ派遣されています。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120328-OYT1T00938.htm

ついこの間も国境付近で大規模なテロが起きました。

https://www.youtube.com/watch?v=3qYmxozDoy4&feature=player_embedded

国会の議論でも明らかなように、国を護る覚悟のない総理大臣の任命で、自衛隊は国や故郷を背負う気概、日の丸を背負う覚悟で、正に命をかけ紛争地帯へ派遣されています。

しかも日本を守るためではなく、国際貢献という名前の日本の名誉のために。

Sudan

http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-70d6.html

国を護る気も覚悟もない現政権を、一刻も早く引きずり降ろさなければならないと強く思う、宇都隆史参議院議員の国会質疑です。

こちらの動画、ご覧になった方も多いかと思いますが、何度でも見て頂きたいです、

宇都隆史参議院議員 動画

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=-VOF-6OiRAU

日本の国旗を背負うということは、自分の命に賭けて国を護るという意味です。

一人の日本人として。日本の長い歴史に恥じないように。

議員も公務員もせめてその気概だけはもちませんか?

自衛隊や警察消防のようなプロフェッショナルな特殊任務の仕事はできないけれど、せめてそれぞれの公務員がそういう気持ちで仕事をしていかなければ、命をかけて仕事をしている方々に申し訳ないじゃあありませんか?

教育公務員という安定した収入と社会的地位を得つつ、日本を嫌いになるような自虐史観を生徒に刷り込む。これはある意味とても危険な洗脳行為です。コメント投稿の教員の方の視点は「地球市民」思想です。あなたに今必要なのは日本に誇りを持てる教育を生徒に施す事です。あなたの思想的なものを刷り込むのなら今すぐ教育公務員をやめてください。

日本は言論の自由はあります。ですがあなたは教育公務員なのです。

立場をわきまえる事が義務だと思います。

もしあなたがご自分の主義主張を展開したいのであれば現在進行形でチベット問題やウィグル問題を抱えている中国で是非持論を展開してください。

安定した公務員という職を捨てずに、日本批判をするのはお門違いとしか言いようがありません。

日本を愛する心を育むのが、日本の義務教育だと私は思います。

持論を展開するなら義務を果たした上でやってください。

あなたのような教員がいるということに私は衝撃を覚えました。

日本という国家を愛せない者は公立学校の教職に就くべきではありません。

それが私からあなたへの返答です。

ブログランキングに参加しています。

皆さんのクリックが大きな力になります。

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

| | コメント (6)

国家と領土

ブログランキングに参加しています。 

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

中国軍幹部が衝撃発言!日本の領土尖閣を武力で強奪

http://www.zakzak.co.jp/society/foreign/news/20120315/frn1203151137000-n1.htm

とても大変なニュースだと思います。

中国が尖閣列島に牙を剥き出してきました。

中国人民解放軍の羅援少将が中国のテレビ番組で「尖閣の領有権を主張し、尖閣での軍事演習を計画」と。

領土問題を単なる歴史の問題だと思ってる人がいますが、そういうことではありません。

中韓ロシアは正当な領有権なんかないことを承知で、それでも日本の領土を奪いに来ているのです。

60年以上、支配権を奪われている北方領土は今現在どうなりましたか?

李承晩ラインで韓国に不法占拠されている竹島は今現在どうなりましたか?

中国も、それと同じことをこれから日本に行おうとしているのです。

領土に関して詳しいことを知る人間が少なくなってきた今というタイミングを見計らって、強硬な態度に出るようになってきたのです。

これは領土問題に関してずっと消極的な態度を取り続けてきた日本政府の責任です。

現政権の民主党もそうですが、自民党にも大きな罪があります。

明確な態度を示して来なかったからこそ現在の歪みが起きているのです。

実力行使に出られながら「領土問題は存在しない」と竹島に言いつづけ、今度は尖閣にも同じ事を。

「我が国に領土問題は存在しない」と。

他国が領土を不法に占拠しようとしても、日本は決して強い態度に出ることはない。

これはすでに北方領土問題や竹島で明らかになっています。

韓国にやらせ放題にしたツケが尖閣問題で回ってきているのではないでしょうか?

例え奪うことができなくても、共同で管理することになれば、元の状態から考えれば十分得をすることになります。

中国が共同で資源の開発をしましょうと言って来てるのはそういう意味なのです。

あと日本が積極的に国民の血税を使い中国からの留学生を受け入れている現実。

国防動員法 中华人民共和国国防动员法 という中国の法律の観点から考えると、人民解放軍戦士の導入を日本自らがしているという事になります。

日中友好、日韓友好というのも必要でしょう。

しかし友好というのは片方が一方的に相手を受け入れることではありません。

現在の状況では決して対等で無いどころか、一方的に日本が汚されていきます。

日本に何十年も住んでいて「韓国籍」「朝鮮籍」でいる人を優遇する必要などありません。

特別永住権というもの自体考えなおし、他国の人と同様に扱うべきだと思います。

彼らの意思であえてそうしているのですから。

何故朝鮮学校を無償化しなければいけないのでしょうか?

民族教育をしたければ自分のお金でやるべきであって、日本は無関係です。

どの国も外交にははったりが重要なことを理解しています。

日本相手ならどんな荒唐無稽な要求でも、言ってみてて様子を伺うという言わば綱引きです。

その綱引きの手を緩めてしまったのが現在の中国と韓国です。

民主党政権がきっぱりと「尖閣諸島は日本の領土である」と宣言した上で自衛隊駐屯などを考えなければ中国の思い通りになってしまうでしょう。

弱肉強食の国際外交には弱腰の対処はありえないのです。

中国の妄言を放って置くと次は沖縄、その次は九州となるでしょう。

日本はこの件で決して引いてはいけないのです。

ブログランキングに参加しています。 

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

| | コメント (3)

いき過ぎた反日教育の結果

ブログランキングに参加しています。

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

拙ブログでは、韓国の非道は何度も取り上げています。
決して韓国という国への悪口雑言では無く、「客観的事実」に基づいた批判です。
マスコミがやたら持ち上げる「韓流」というのにも正直うんざりしています。
ブームは自然発生的に起こるものです。
最初に仕掛けがあっても、支持されなければブームになり得ません。
ところが日本人の全く知らない自称韓流スターがうようよと。
単なる出稼ぎ商売でしょう?としか思いませんけれど、ゴリ押しされればされるほど嫌いになっていきます。
何かに似ている構造だな・・・と考えたら「ストーカー」なんですよね。
嫌いだと言えば「差別」だと騒ぐ。
好き嫌いは人間の素朴な感情であって、誰かにコントロールされるものなどではありません。
「他国を侮辱する韓国という国家」
http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-d7c2.html

「虚構の歴史を作る韓国」

http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-54f5.html

「日本を侮辱する韓国人たち」

http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-4c77.html

「大統領の猿芝居」

http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-d78e.html

等々…。



そして、靖国神社の放火

「日本人の魂と北朝鮮」

http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-08b5.html

「靖国放火事件とその後」

http://tomiyo.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-623f.html



東日本大震災から1年が過ぎ日本国民がそれぞれに震災を振り返る中、

改めてこの動画が拡散しています。

韓国という国は日本を貶めるという教育システムがあり、徹底した反日教育を行なっています。

韓国人にとって日本人は憎むべき存在なのです。そこを我々日本人はきちんと理解しておかなければならないと思います。
他国の国旗を平気で踏みつける(しかも韓国の国会議員だそうです。この写真は)事をしている。
それがどれだけ醜いことか…。彼らにはそういう自覚も無いのでしょうね。
3141
国際的なサッカー大会で「日本の大地震をお祝いします」という横断幕を張る韓国人サポーター。
しかもそれが報道されると、サポーターの肖像権侵害だと騒ぐ韓国世論。
3142
つい先日、韓国の主要紙に韓国の日本大使からの謝辞が掲載されたそうですけれど・・・。
地震のときに集まった義援金を独島(日本名竹島)や自称従軍慰安婦に流用したという屈辱を私は忘れません。
韓国の義捐金 20%を被災地に、70%を“独島守護活動”に

「独島を自国領土と捏造した内容をすべての中学校教科書に採択するような敵対的な態度を見せる日本に義捐金を送る必要などないという意見が多数出てきたため、3月31日と4月1日の2日間、職員を対象に『日本の地震被害支援募金の使用方法について』のアンケートを実施しました。330人から回答が集まり、『主旨通りに使う』が20%、『独島の守護活動を支援する』が70%、その他が10%という結果になりました」

 衿川区長チャ・ソンス氏は4月5日、アンケート結果を尊重して、募金のうち20%を日本へ送り、70%を独島守護活動団体に、10%をなぜか戦争性被害者(元従軍慰安婦)の団体に寄付することを発表した。

(週刊ポスト2011年4月29日号 一部引用)

http://www.news-postseven.com/archives/20110420_17938.html

世界にあるセブンイレブンに、各国から寄せられた義援金の明細がアイワイホールディングスのHPで掲載されています。
3143
極僅かですが、韓国人にも日本へ心を寄せてくださった方がいらっしゃったのですね。
そのことには素直に感謝します。
台湾の金額の大きさにも驚きますが、タイも突出しています。
アメリカやカナダ、台湾、香港、韓国はさほど日本と物価の差がありません。
しかしタイは平均月収が日本の1/10程度の国。
その国でこれだけの金額を集めてくださった事に深くお礼を申し上げます。
タイの国民的歌手バードトンチャイがこういう日本応援ソングを作ってすぐに日本を応援してくれました。
FACEBOOKなどの動きも本当に素早く日本に必要なものを送って頂きました。
映像を見ていただくと解りますが2番の歌詞は日本語で歌っています。
親日な国を大切にするというのが外交なのでは無いのか?と私は思います。
ですから3.11の慰霊祭での台湾の方への非礼な扱いには憮然としました。
中韓という反日教育を国家で行うような国を何故優先するのですか?
そして今年の3月11日にはこんなこともありました。
3144
東日本大震災発生から1年を迎えた2012年3月11日、「日本人は地震で一瞬に死んでください」
「私が殺すとすれば日本人!」などと、たどたどしい日本語で語る若い男性の動画が「ユーチューブ」にアップされ、ネットが騒然となった。
問題の動画は「ハ~イ日本人たちよ、こんばんは」で始まり、「あなたたちは被爆しているん
ですか?もう直ぐ東京でも大地震が発生して死んでしまうのですか?」と問いかける。そして、
人を殺そうと考える場合は日本人をイメージしていたが、殺す必要がなくなった、と続ける。
それは日本人が勝手に自滅してくれるからで、

「あ~気持ちいい。それでは、これから日本の復興を、ずっと見守りながら、楽しんでまいり
ます。一瞬に死んでください、日本人の皆さん」と語って動画は終了する。


何にでも過敏に反応しろというわけじゃありませんが、政治家は国家の誇りを持って態度を示さなければ恥ずかしいのでは無いですか?
この動画を投稿した韓国という国に対してきちんと抗議するべきです。
あなた方は決して踏み込んではいけないメンタルな部分で日本人を誹謗したのだと。
韓国のインターネットは全て国が管理するIDが必要なのでこの投稿主の特定は安易なはずです。
何万人もの犠牲者を出した東北大震災の1年目の日にわざわざこういう嫌がらせを投稿するような人物は韓国の恥ですよ?
あえて言い切ります。これはこの男個人の問題などではありません。
これは韓国と日本の外交問題なのです。
もし逆の立場なら大変な事になっているはずです。
教育というものがどれほど国民に大切なものなのか、韓国という反面教師を見て改めて感じます。
日本人よ。誇りを持ちましょう。
そして東日本を復興させましょう。

ブログランキングに参加しています。

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

| | コメント (3)

緊急・「人権救済機関設置法案」への反対

ブログランキングに参加しています。 

皆さんのクリックが大きな力になります。

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

3125_2

売国民主党の小川法務大臣が今国会で「人権救済機関設置法案」を提出しようとしています。
この法案の問題点は率直に言えば
日本人への人権侵害にあたる という事です。
三権分立の元を離れた特殊機関を設置するのと同様です。
これは日本人の人権を守るための法案などではありません。
上記の動画で、自民党の柴山昌彦議員が明確な問題点を指摘してくれています。
人権擁護委員に任命されるのも「日本人」ではない場合があると小川法務大臣は国会答弁で答えています。
つまり人権擁護委員会が「差別」であると決めた事案は否応なく処罰されるという悪法です。
簡単に言えば外国人優遇のための法律でしょう。
中韓に媚びを売る売国政党の面目躍如です。
民主党らしいやり方ですね。
地方議員としてではなく、一日本人として、
私はこの法案に断固反対します。
詳細はこちらのブログを。

ブログランキングに参加しています。

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

| | コメント (2)

脱原発を煽ることによって得する輩

ブログランキングに参加しています。

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

3121_2

<東日本大震災>福島では1万6000人集結原発反対集会

10代を代表し、県立あさか開成高2年、鈴木美穂さん(17)は「原発がなければ、被害に遭った人を助けに行けました。人の命も守れないのに、電力とか経済とかいっている場合ではないはずです」と訴えた。

毎日新聞 311()2136分配信(一部引用)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120311-00000059-mai-soci

東京 脱原発訴え人間の鎖

東京・千代田区の日比谷公園には主催者側の発表で1万人余り、警察によりますと、およそ6800人が集まり、地震が起きた午後2時46分に合わせて参加者全員で黙とうをささげました。

NHK NEWSWEB
 311 1924分 (一部引用)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120311/t10013640711000.html


震災から1年 信州に広がる脱原発

この1年、「脱原発」をキーワードに、さまざまな立場の人々の間で新しいつながりが生まれつつある。従来の政党や労働組合、市民運動といった枠組みを超えた胎動、とみることができる。

信毎WEB 311日(日)  (一部引用)

http://www.shinmai.co.jp/news/20120311/KT120310ETI090002000.html

「さよなら原発」九州各地で脱イベント

福岡市・天神の集会では、震災の避難住民や元原発作業員、長崎原爆被爆者が脱原発をアピール。福島市から福岡県内に避難している3児の母、阿部恵さん(32)は「(原発事故で)街や海は変わり果てた。大切なものを奪う原発の危険を知ってほしい」。参加者は天神地区をデモ行進し、九電本店を人間の鎖で囲んだ

西日本新聞 2012311日 (一部引用)

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/291360



私はこれらのマスコミの脱原発デモ報道にさりげない悪意を感じます。

助けにいけなかった。大切な物を奪う原発。

そういう被害者感情に訴えているのですが、日本が脱原発をすれば、本当に日本国民の安全が担保されるのでしょか?

まずはじめに、申し上げておきますが私は福島第一原発事故について東電を擁護する立場ではありません。

むしろ危機管理を疎かにした東電は糾弾されるべきであろうと考えています。

災害から1年過ぎても遅々として進まぬ復興。政府の方針も右往左往している現状。

現場の声が本当に届いているのだろうかという危惧さえ感じています。


原発事故があれば放射能汚染が拡散する(場合によっては広範囲に)、これは間違いのない事実だと思います。

しかしそれならば中国や韓国の原発政策を抜きにして、日本だけの脱原発がどの程度の意味を持つものなのでしょうか。

原発は大量の冷却水が必要だから海辺や大きな河川に隣接した形で作られています。

ということは、中韓の原発は日本海側に作るのが自然です。

3123_2

3124_2

偏西風に乗ってやってくる黄砂を思い浮かべれば、中国韓国で原発事故が起きた場合日本に影響が無いわけがありませんよね。

実際中国は核実験を繰り返し行なった事は事実ですし、黄砂に有毒なものが含まれているというのもまた事実なのです。


では中国と韓国の原発政策はどうなっているのでしょうか?

韓国 http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=14-02-01-09

中国 http://eneken.ieej.or.jp/data/pdf/701.pdf

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80

これを見るかぎりでは、中韓両国は原子力発電の推進国です。

こんなニュースも見つけました。

http://media.yucasee.jp/posts/index/8663

事故を事故としてきちんと報道しない中国共産党一党支配では本当は何が起こっているのか知るすべもありません。

ついこの間の列車脱線事故の直後、事故車両を土に埋めて隠蔽し国際世論から顰蹙を買ったニュースを皆さんも覚えているかと思います。

ここで少し前を振り返ってみます。

中国の地上核実験で放出された全放射能量は、チェリノブイリ原発事故の800万倍と言われています。
黄砂と共に日本に降り注いでいたストロンチウムは福島原発事故の1万倍。
日本で問題視されているセシウムの生物半減期が100日なのに対し、ストロンチウムの生物半減期は15年だそうです。

中国の核実験による放射能の飛来について、当時のNHKを始めとする日本のマスコミは一切報道していません。

それどころか中国が核実験を行なっていたその時期に、核実験の現場である新疆ウイグル自治区でロケを行ったNHKのドキュメンタリー番組「シルクロード」を放送。

エスニックブームを煽り、シルクロードへといそいそと観光に出かけた日本人を放射能被曝の危険に晒しました。

知らないうちに被曝する。それがどんなに危険なことであるのかNHKは自覚しているのでしょうか?


実は原子力発電の技術というのは、科学技術の最高峰とも言うべき国家の根幹を為す側面があることを忘れてはいけません。
原発技術というのは核兵器に転用出来る技術なのです。

私は今日本が核兵器を持つべきと主張しているのではありません。

いつでも日本は核兵器を作れる技術があるのだと世界に知らしめておくことこそ、いわゆる「抑止力」になるものなのです。


福島の原発事故を発端とした、脱原発ムーブメントにより、その専門研究者が海外に出ていかざるを得なくなるのではないのか。私はその事が心配でなりません。

人間の作ったものに完璧などありえないのは百も承知です。

ただ無闇に『脱原発』と騒ぐのでは無く、原発を少しずつ代替エネルギーに変えつつ、次世代エネルギーを研究しておくというのが日本がやらなければならない事なのでは?

現実問題、日本国中の原発を直ちに無くしたら電力不足になり昨年のような計画停電が日常茶飯事に起きることになります。

家庭で工夫するから平気と主張する人にお尋ねしたいことがあります。

日本の製造業で電気が無ければモノを作り出すことすら不可能になります。

全てを火力や風力、波力に変えたところで日本国内の電気需要を賄いきれません。

明治以前の暮らしに戻っても平気というのならそれも一つの考えではあるでしょう。

しかし日本という国の国力は衰えていくだけです。

あなた方は日本の衰退を是とする覚悟はありますか?

核運用技術は、国連安保理とも密接な関係を持ち得ます。

そこを指摘する人は少ないですけれど。

現在の国連常任理事国

アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国

いずれも核兵器保有国です。

日本は非常任理事国ですが、敗戦を経ても、なお安保理に食い込んで行けるのは、核の運用技術があるからです。

それを手放すということは、ただでさえ少ない日本の外交カードを自ら捨てるに等しい行為です。

何度も繰り返し私は言っていますが、「外交は資源の角逐の歴史」なのですから。

非常任理事国とはいえ、日本が国際社会で発言権が強いのは、世界が欲しい強い日本円や核運用技術を含めた先進科学技術を日本が持っているからに他なりません。

いつかは石油などの化石燃料も枯渇します。欧米の乱獲により鯨が激減したように

メタンハイドレートや、オーランキトリウムの実用化もまだまだ先の話です。

それでも反対派の願いが叶って、日本が全ての原発を手放したと仮定しましょう。

一旦廃炉した原子炉を電力が足りないからと言って再開するのは、立ち上げよりも遥かに高くつきます。

それは決して難解な計算式ではありません。私たちの日常生活でも往々にしてよくある事です。

更に日本は他国と隣接せず海で隔てられているので、欧州のように、隣国からの買電で電力不足を凌ぐという事も事実上不可能です。

将来的に蓄電池などで技術的に可能だとしても今の倍以上の電気料金になるでしょうね。

少なくとも、日本人は核から眼を背けてはいけません。

自衛隊や普天間と一緒です。

日本という国家の未来を考え、100年の計を以て取り組むべき問題なのです。

そして、それを責任をもって決断実行するのが、政治というものの責任だと私は思います。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/23/5/0519_03.html

報道されていない事でこういうニュースがあって私は愕然としています。

韓国原子力安全技術院の原子力専門家1名(同院原子炉システム評価室主任研究員)の長期受入れを決定しました。


国家の大事なブラックボックスである原発の技術を、あるのかないのか解らない韓国技術に感謝し、スパイとも言うべき韓国技術者を長期受け入れするなんて、正気の沙汰ではありません。
一体何考えているんでしょうか?政府と外務省は。


ここで問題点を整理してみます。

1
. たとえ日本が脱原発をしたところで、中韓は原発をどんどん推進していく。

2
. 経済成長を支えるための電力供給を賄うためには、原発技術者が足りない。

3
. 日本が脱原発をすれば日本人の技術者は必要としてくれる国へ移動する。

4
. 核兵器を作ることが出来る(と思われる)技術者は中韓を始め海外へ。

5
. 日本の国力は激減。日本国存亡の危機。



日本が脱原発して喜ぶのは中韓で、日本侵略のプログラムが大きく推進することになります。

さて、脱原発を煽っているのは誰なんでしょうか?

私にはもはや反日組織としか思えないのですけれど。

よもや良識ある国会議員の皆さんが、乗せられている訳ではないですよね?

原発の痛ましい事故が起きてしまった。だから原発は不要。

こういう短絡的な考えでは近視眼的な考えというしか無いでしょう。



そもそも福島原発の事故は、どのくらいの危険性なのでしょうかね。
ものすごく危険で福島原発周辺は、人っ子一人入れないようなところなのでしょうか?

広島や長崎の原爆投下のときにこう言われていました。


二度と草も生えない。

現実を見れば、それは違うという事が解ると思います。

今現在NHKニュースで毎日各県の放射能量測定の結果を公表しています。

これを観ていたずらに不安に怯えるのでは無く、本当の意味での危険性の公表を政府が積極的に行うべきであろうと考えています。

小さなお子さんを持つお母さんなど毎日を先の見えない不安や恐怖のままでしょう。

また原発からの避難民についての対応も「本当に戻れるのか」明らかにする義務が政府にはあります。

東京電力という一企業の問題ではありません。国家としての問題です、

何がどう危険でどう対応するべきなのか、日本国民の健康と安全について情報公開するべきでしょう。

原発という技術が悪いのではありません。事故後の東電と政府の隠蔽体質が悪いのです。

菅直人という最低な政治家は日本の教科書に名前を残すかも知れませんね。


このような見解を持つ医師もいるのですけれど

本当のところはどうなのでしょうか?

http://sankei.jp.msn.com/science/news/120115/scn12011512010000-n1.htm

| | コメント (3)

歴史に学ぶ~日本の開国と伊豆下田の関係~ その3

ブログランキングに参加しています。

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

(下田出身の儒学者・中根東里)

 それでは資料の下田小学校校歌をご覧頂きたいと思います。二番を見てください。

下田出身の偉人を歌っています。「愛の正長・技の蓮杖・学の東里を育みて」とあります。この学の東里は、下田出身の儒学者の中根東里のことです。下田の歴史上の人物では、一番日本論語研究会に近いといえます。2010年の2月に、文藝春秋に三回にわたり中根東里の特集記事が出まして、その著者である茨城大学・磯田先生によれば「絶後の詩才を讃えられながら、身を隠すように生きた清貧の儒者」だそうです。私といえば中根東里は江戸時代の陽明学者という事ぐらいしか認識がありませんでした。開国の頃より随分とさかのぼりますが、ご容赦を頂きたいと思います。

 さて、中根東里とはどんな人物であったのかということを、少しご説明したいと思います。東里は1694年の生まれで17歳の時父の死に遭い、学問好きだったこともあり剃髪し仏門に入りました。

荻生徂徠

(

おぎゅうそらい

)

室鳩巣

(

むろきゅうそう

)

に学び、清貧の生活を続け、40代で陽明学と出会います。「致知格物・知行合一」を唱える実践学は東里の心を捉え、「孔子伝授の心法は、ことごとくこの書にあり。なんぞこれを読むことの晩きや」と叫んだそうであります。そしてそこから陽明学者として大成していくことになります。一言で中根東里を表現するならば、学ぶことや様々な人間関係に対し、自分の理想をとことん貫いた人物といえます。

 東里が陽明学に出会うきっかけとなった事件があります。

江戸の弁慶橋近くの木戸番をしていた頃のことで、竹の皮を使った草鞋を編んでそれを売り、生計を立てていました。わずかなお金がたまれば書物を買って読むという生活です。

そのうち近所の町屋の子供たちが自然に集まってきて字を教えてくれなどといい、地面に棒きれで「いろは」を書いて文字などを教えていたようです。

そういう時代に東里は、虐待を受けている子供に出会います。幼くして母親を失い、父親が知人の女にその子を預け、その先で虐待にあい食べるものも食べさせてもらえないような生活だったようで、泣いては眠り起きては泣く、そんな幼子はいつの間にか東里の目の前からいなくなってしまったのです。

「自分はいったい何のために、これまで学問をしてきたのか」そんな思いの中で、今までほったらかしにしておいた友人から贈られた本・王陽明全書を読み、先ほど申し上げました境地に達したのです。昔から虐待はあったのですね。ここでちょっとご紹介をさせていただきます。

虐待にあい「僕はもうここで死ぬんだ」とあきらめかけた幼少の頃、これでもか、これでもかという逆境の荒波にもめげず、不撓不屈の精神で立ち向かい平成のKOキングと呼ばれた男、坂本博之さん。ご自身の虐待の体験から、現在は児童養護施設の子供たちへの支援などを行っています。坂本博之応援団下田支部長の私としては、この機会に皆様にご支援をお願いする次第でございます。

 東里が後世に残した言葉は沢山ありますが、私自身のキャッチフレーズといいますか、いつも心に留めている言葉が二つあります。

ひとつめは「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」、これは早稲田大学の創設者、大隈重信が演説で引用したことでそちらの方が有名になってしまっているようです。

意味は、人に施しや親切を行っても、そのお返しを願ってはいけない。また施しや親切を受けた時には、その恩を忘れてはいけない。忘れずにそれに報いることだという事です。

その通りですよね。

でも日頃つい忘れがちなことです。

私はこんなにあなたにしてあげているのに、なんであなたはやってくれないの?私はこんなに愛しているのに、なんであなたは愛してくれないの?こんな風になっては人間はおしまいです。

私は東里のこの言葉は、神道を根源とする日本人の慈愛の心を言っているのだと感じました。

神道は共同体を守るための土着信仰でありますから、国家や郷土、そして家族の和を大切にする日本の文化そのものです。

そこには慈愛の心がないと上手く行きません。

「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」は、神道を根源として日本人がつくりあげてきたある種の道徳観なのだと感じます。

だからこそ政治の場に身をおく者として、いつも心がけたいことなのです。一票を頂いた恩義は決して忘れないけれども、一票がほしくて政治を行ったらいかんのです。本末転倒です。

政治を行うということはいわゆるお金の配分にほかなりません。一票をもらったあなたの直接的な利益にはならないけれども、自治体という市民の集合体をより良く継続させるためにはこの政策を押し進めます。そういう私を良しとしないならば、次の選挙で一票はいりません。諸事問題が起こるたびに、腹をくくって本気で政治に取り組む決意をさせてくれる「施して報を願わず、受けて恩を忘れず」です。

 ふたつめの言葉は「出る月を待て、散る花を追うことなかれ」です。

この言葉は東里の弟の経済的困窮から、その娘の芳子を引き取り養育していた頃のものです。

当時東里は53歳です。いつ自分が死ぬかもわからない。自分が死んだら残された芳子はどうなるのか、そんなことを考えていた時に浮かんだ言葉だったようです。

人生において、喜びの瞬間は短い。どんなに大切な人との別れも必ず来る。しかし、桜の花は散っても月は必ず出てくる。それを待つ時間をどのように生きるかが「人」である。こんな意味でしょうか。

物事には全て終わりがあって始まりがある、私はそんなふうに理解をしています。

桜の花が潔く散っていくように、けじめを付けて終わらせなくてはならない事、終わる時期が来た事はすっきりと跡形もなく終わらせるのがよいのです。終わらせないと次の段階に進むことが出来ません。

潔く終わらせるという発想は、ともすれば歪んだ左翼思想の持ち主から「戦争賛美」だの「特攻隊美化」だのと言われそうですが、潔く終わるということも又日本人の美意識に根ざした思考であると考えています。

散る桜を愛おしく思う感性、四季折々の木々の佇まいに美しさを見出す感情こそ、四季に恵まれた日本独特の感性ではないでしょうか?

夏は蝉時雨、秋は落日、冬は冴え冴えとした朝の空気、春は散る桜。四季のめぐりに心を寄り添わせながら、日本人は心を研ぎ澄ませ、繊細な感性を四方の海に護られながらその特有の感性を育んできました。

一つ所にとどまらない四季の移ろいは、日本人の心に陰影を添えます。

永遠などこの世にはないのだという無常観。決してネガティブな意味での無常ではありません。

全ては移ろい、全ていずれは、滅すると言う達観。日本人なら誰もが心の根底に持つ悟りといってもいいかもしれません。

繁栄の隣には衰退が、輝かしい生命のかたわらには死が、光のそばには影が寄り添っていることを感覚で知っています。

日本人特有の物事への淡白さ、潔さはすべてを明らかに視るという意味での「あきらめ」でもあれば、又独自の美意識でもありましょう。

咲き誇る花が美しいのは、やがて散る定めにあり、しかし、散るからこそ花の命の華やぎが美しいことを知っています。影がなくては光もありません。その陰影に底深い意味を見出す民族でもあります。

そして日のあたらない時期をどのように生きるのか。影での働き、見えないところでの働き。内助の功。それこそが人の生き方として重要なのだと説いているのだと理解しています。

 先ほど中根東里は、学ぶことや様々な人間関係に対し、理想を貫いた人だとお話しましたが、理想を貫くときたった一人では何もできません。必ずそこには影になる人がいます。影に徹し、支える人がいます。東里は清貧な生き方を貫き、数々の著作をしたため、後世に残る名言を残しました。

私は東里を支えた影は姉であったと思うのです。この方は浦賀に嫁いだのですが、自分の母を連れて行きます。年老いてから引き取ったのかもしれませんが、いずれにしてもこの時代に嫁ぎ先で実家の母の面倒を見ているのです。東里やその弟が、女の目から見れば好き勝手に生きているのを、支え続けたのです。引き取った芳子も育てきれず、結果的にこの姉が育てています。

お姉さん、本当に立派です。この時代の日本女性としての真の働きをされた方なのでしょう。まさにやまとなでしこの鏡です。この姉なくしては、東里は自分の人生を貫いていけなかったでしょう。人間はみんな誰かに支えられて生きているのです。

(まとめ)

 さて、歴史に学ぶ・日本の開国と伊豆下田の関係というお話をさせて頂いた訳なのですが、今私たちが求められているのは、この開国という大きな歴史の転換点から何を学び、どのように今に活かすかということです。

それには先人が命をかけ欧米列強から守りぬいた、日本という国の価値が何であるのかをきちんと本質を理解しなくてはなりません。

日本の国が存在する価値ってなんなのだろうという問いかけは、私自身がそして皆さん自身が今ここに存在する価値って何なのだろうという問いかけと全く同じです。

日本の文化や精神性は、この日本の領土の中でしか、海に囲まれた小さな島国でしか生まれなかったものです。

日本という世界でも稀有な国家の枠組みの中でしか育たなかったものです。

私たちは遙かなる神代の昔から綿々と受け継がれてきた領土と文化を今後継しました。そして次の世代に後継していきます。

全てを受け継ぎ全てを繋いでいく。後継そのものが「国家の価値」だと思うのです。未来へ繋ぐことが私たちの価値であり「より良く生きること」なのです。

今日本は大きな危機の中にあります。尖閣や竹島、北方領土などの外からの侵略行為だけでなく、内部崩壊の危機にあるのです。

侵略は領土だけではありません。文化もです。独自の文化が無ければそれは独立国家ではありません。

主観的要素の強い、間違った視点での歴史を生徒に教え込み、祖国を嫌いだという反日日本人を作り続けている日教組と、文化侵略を許すマスメディアの問題。

例えば公共放送であるはずのNHKがジャパンデビューと言うドキュメンタリー番組で台湾を取材して、偏った意見だけを編集し放送しました。取材相手の台湾人本人からの抗議も起こりました。歴史を語るとき全て功罪ともに考えなければいけないはずです。ところがNHKは「罪」の部分だけ抽出しました。これが果たして日本の公共方放送の姿と言えるのでしょうか?

そして教科書採択問題。

教科書問題は、実は日教組問題そのものだと私は感じています。

昨年の11月に行われた自民党女性局の政策研究会で、私は自民党政務調査会文部科学部会長・下村博文先生の分科会に出席しました。

そこで教科書採択についての詳しい経緯を伺うことが出来ました。

教科書は表向き教育委員会が選んでいます。

選んでいるにもかかわらず、中身を精読している人はほぼいないのが実情らしいです。

何故ならば100冊くらいの教科書候補をずべて読まなくてはならないからです。

そんな面倒なことはなるべくしたくないだろうし、他のお仕事もされている方もいますから物理的に無理なんだと思います。

そこで登場するのが、教科書専門の調査員です。

調査員が調べて報告書を教育委員会に上げる、その報告書を見て教育委員会が採択するという仕組みなんです。

報告書はどんなものかというと、

A社 かくかくしかじか、こんなに良い所があります。ココもいいです、ほらこんなところも・・・

B社 こんなところは良いですよ。

C社 記述なし

これだったら、当然ですけれど良い所がいっぱい書かれたA社を選びますよね。

報告書を書く教科書専門の調査員は、社会科の教員、国語の教員等、なんと日教組の皆さんです。

(日教組に大きな影響を持つOBも含まれているとか)

つまり自分たちが使うのに都合の良い教科書を優先します。

要するに日教組にとって都合の良い記述が多いことが最前提となっているからくりです。

大東亜戦争だって日本がすべて悪だったをいう視点で書くことは可能なのです。

それがまかり通る現状に、私は強い憤りを覚えます。

客観的事実を適確に伝えれば歴史は学べます。

でも実際の教育現場には、教科書の、教師の主観的事実がかなり入っているのです。

だから漠然と日本は悪い国だという罪悪感、

贖罪感

(

しょくざいかん

)

を生徒に教え込むことが可能なのです。

そして教科書会社は採択してもらえないと商売になりませんから、教科書が改訂のたびに、日教組の都合の良いように左傾化していく仕組みになっているのです。

教科書に書いてあるから正しいということはありません。特に歴史に関しては。

現在の日本の教科書は主観的事実に偏っていて、しかもその「事実」は日本側から見た事実ではありません。

何がどうなったのかという事実のみを正確に伝えればいいだけなんです。

日本人が日本を愛せなければ、誰が日本を愛するというのでしょうか?

まずは国会議員の皆さんに、現在は開国当時よりも複雑で深刻な状況に置かれているという問題意識を持って頂き、国会で取り上げていって欲しいと思います。

国を愛する心が右翼的と言われる捻れた現状を打破しなければいけません。

君が代や日の丸が戦争賛美と言うのも間違った認識です。

戦争には善悪などありません。あるのは勝ち負けだけです。勝ったほうが正義になるだけなのです。日本は大東亜戦争にたった一度だけ負けた。ただそれだけです。

それをずっと引きずる必要などありません。日本は大東亜戦争以降他国と戦争をしていません。それは世界に誇れるべき事だと思います。長い歴史の中できちんと私たち自身が総括するべき問題であり、他国にとやかく言われるようなものではありません。

きちんと歴史と対峙する。その姿勢こそ今の私達に一番必要なものだと考えています。

そして私たち日本国民には、先人が命を賭し守ってきた領土、そして文化を次の世代に繋いで行く義務が課せられているのです。

 尖閣諸島中国漁船衝突事件、もう一昨年の事になりましたね。

私は尖閣侵略糾弾デモに参加して、ハチ公前広場でチベットのペマ・ギャルポ氏の街頭演説を聞きました。

最後にその時彼が何を演説したのかをご紹介したいと思います。

日本国が大和自治区にならないように。日本自らが国を守るという意思を明確に示すこと。今のんびり暮らしていけるのは国家があるからだ。私は難民になり50年、国家がないということがどれだけ惨めなことか。今まで先人から受け継いできたものを次の世代に必ず日本国として引き継いでもらいたい。

チベットの歴史を紐解くと文化侵略の恐ろしさ、国家侵略の狡猾さがよく理解できると思います。

今日の私の話を聞いていただいて、もし何かを感じていただいたら、どうかその思いをまず行動に移してください。それぞれのお立場でそれぞれのできる範囲で、でも必ず一歩前へ。

このことをお願いして、終わりたいと思います。本日はありがとうございました。

ブログランキングに参加しています。 

皆さんのクリックが大きな力になります。

ポチお願い致します。m(_ _)m

人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

歴史に学ぶ~日本の開国と伊豆下田の関係~ その2

ブログランキングに参加しています。

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

(ペリーの黒船 捕鯨・日米和親条約)

 世界の覇者イギリスがクリミア戦争に力をそがれていた頃、ペリーが日本へやってきます。もともとアメリカの目は日本にはなくまず中国市場ありきでした。日本に来た目的は「難破船員の保護」と「石炭・食料・水の補給」です。捕鯨の中継基地を確保する目的が主で、貿易はそれほど重要視されていませんでした。19世紀初頭からアメリカの捕鯨は急成長します。この捕鯨について少し遡ってお話をいたしますが、欧米の捕鯨の目的は灯火用の鯨油の採取で、今で言う石油などのエネルギー資源と同じです。日本とは捕鯨に対する考え方が全く違うという認識を持っていただきたいと思います。

大がかりな捕鯨は11世紀、イベリア半島のビスケー湾を起源とします。1560年代に最盛期を迎え漁場は大西洋にまで及んでいます。鯨油のもたらす利益の大きさは、鯨の乱獲へ繋がっていきます。1590年代になるとスピッツベルゲン島の漁場をめぐってイングランドとオランダが争い、捕鯨船は武装化し大きくなっていきます。1630年代後半にはスピッツベルゲンの資源が枯渇し、漁場は北大西洋に移っていきます。波の高い外洋を乗り切るために捕鯨船はますます大型化されていきます。この頃の欧州各国の乱獲により北大西洋のコククジラは絶滅します。

さてアメリカは乱獲による資源の枯渇から沿岸操業がかなわなくなり、18世紀になると船を大型化し太平洋全域に漁場を求めます。1820年代には日本周辺にもやってきます。日本周辺はきわめて資源豊富な漁場であり多くの捕鯨船が集まってきました。アメリカ式の捕鯨というのは油を採取し他はすべて捨ててしまうという完全な商業捕鯨です。捕獲した鯨を船上で解体し、皮などを釜で煮て油を採り樽詰めし、薪と水を出先で補給しながら最長4年位の航海を続けるという方式です。鯨の肉・骨・その他、すべて海洋投棄します。このように当初アメリカは捕鯨の中継基地としての役割を日本に求めたのです。

この頃イギリスは産業革命により石炭ガスなどの新エネルギーの開発から、鯨油が商売として成り立たなくなり、捕鯨は衰退しています。

ここで日本の捕鯨についても少し触れておきます。奈良時代の文献には「いなさとり」という捕鯨を意味する枕詞が出てきます。江戸時代になると水軍から発生した鯨組という捕鯨専門集団が出現します。鯨組は捕獲から解体、鯨油抽出・鯨肉塩漬けなどの他、農業資材や工芸品などの商品の加工までを行う数千人規模の巨大な組織になり、藩からの支援も受け商品は全国に流通しています。多数の労働者を抱える日本の古式捕鯨は、共同体を大切にする日本の文化が育てたものでしょう。捕鯨を生業とした地域には鯨に対する感謝から、鯨を祀る神社も多くあります。捕鯨についても商業をベースにした欧米と、共同体の利益をベースにした日本とでは全く文化が違うということがわかります。

アメリカが当初の捕鯨目的から貿易にも目を向けなくてはならなくなったのは、ロシアの脅威がありました。ロシアはアムール川沿岸をロシア領とするために中国と、また北方領土も我がものにと日本との国境問題が発生していました。この時アメリカはロシアが日本を占領した時、太平洋の貿易を支配するという危機感を持ったのです。ロシアの存在が日本に対するアメリカの政策を転換させました。

そしてペリーは2度目来航の時、浦賀を過ぎてずっと江戸湾に深く入り込み、船も前回の4隻から9隻の大艦隊でやって来ます。そして17発の礼砲の轟く中500人を超える兵士が上陸します。この圧倒的な武力を見せつけられ幕府は横浜で日米和親条約を結びます。この条約の主な内容は第2条アメリカに物資を補給するために下田と函館を開港すること。第3条漂流民の救助・引渡し。第5条アメリカ人居留地を下田に設定する。第9条片務的最恵国待遇。どうも日本は昔から9条がネックになっていますね。

 この後交渉の場を下田に移し日米和親条約附則13か条・通称下田条約を結びます。アメリカ人の遊歩区域や埋葬地、水先案内港務官を置くなどが定められます。下田の7里四方がアメリカ人が自由に歩きまわれる特区になったんですね。当時の下田町民の驚き、如何ばかりだったでしょうか。

   

(下田における吉田松陰と勝海舟)

幕末、開国、明治維新という時代の流れの中で、今でも人気がある方達…。

若き獅子3人、坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟。

この中で一番下田に縁が深いのは、吉田松陰でしょうか。パンフレットの14ページも参考にしてください。

資料にてご紹介してあります下田小学校の校歌の三番。

「南に広き下田港 平和の海に漕ぎいでて 文化の幸を求めんと 学ぶ我らの意気高し」

これは吉田松陰と金子重輔の「踏海の朝」を歌ったものだと、私は解釈しております。

下田市柿崎の弁天島から吉田松陰と金子重輔が、「文化の幸をもとめんと」アメリカ留学を夢見て、黒船に乗り込むため伝馬船で漕ぎ出したのです。若き松陰が「異文化との遭遇」を夢見て、そこから何を吸収しようとしたのかとても気になります。

吉田松陰が金子重輔と共に、下田入りしてからどのような動きをしたのか、お話してみたいと思います。

1854318日の午後二人は下田入りします。下田見物という名目で岡方屋に宿をとり、326日までは蓮台寺温泉に行ったり部屋で書物を読むなどしています。そして327日の夜決行するも謀る所成らずで、翌日自訴し就縛となります。

吉田松陰「回顧録」によれば、ポーハタン号に乗り込む時に乗ってきた伝馬船が荷物を乗せたまま流されてしまいます。

この荷物の中身も資料に記載致しましたのでご覧ください。

 色々なものが入っています。鰹節とかスルメも入っていますね。

これを見ると色々想いは巡ります。

これからアメリカに渡航をするのだ、異国で学ぶのだと夢と希望を持って作った荷物です。

ところが一瞬にして、その生きるための荷物が、松陰に死を決意させるものになってしまいました。

ポーハタン号から降ろされ、柿崎の島影に身を隠した時、彼の心にどのような思いがあったのでしょう。

これから異国の文化を吸収し学ぼう、日本のために働こうとした矢先なのです。

この荷物は身を隠した数時間の松陰の心の揺れ動きを慮る、とても情緒的な物的証拠だと思うのです。

 この後の松陰の日本での活躍はここでお話するまでもありませんね。

この時一度は死を覚悟した松陰は、自分の理想や理念を一刻も早く後継しよう、そう考えたのではではないでしょうか。

私は松陰の天命というのは、就縛後の「国家という理念を持った人材を養成する」事だったのではないか、そう思うのです。

 松陰が大義を果たそうと命をかける姿を、母の滝はどんな思いで見てきたのか。

同じ子を持つ母として心を寄せずにはいられません。母にとっては自分の命よりも、何よりも大切なこどもの命です。

それを見守り続けるという心の逞しさ、強靭さ。決して表には出ないけれども、松陰以上の大義をもってあの時代を生きぬかれたのだと思うのです。

当時の女としての役割を見事に果たした母親、滝の姿に感銘を受けずにはいられません。

私は松陰の母、滝を思うとき、本日起こしになっているでしょうか。車椅子の葛飾区議会議員・村松勝康先生のお母様、村松ミヨさんと姿が重なります。肢体不自由の勝康少年を背負い、雨の日も風の日も学校へ通わせたお母様です。母親の心の逞しさ、強靭さ、そして慈愛。お二人のお母様に共通したものでありましょう。(本の紹介)

吉田松陰が下田に来てから9年後の1863年、坂本竜馬にかかわる物語がありました。土佐藩のお殿様の山内容堂一行が江戸からの帰り、悪天候のため下田に立ち寄ります。この時に勝海舟も同様に下田に入ります。そのことを聞いた山内容堂が本陣を構える宝福寺に勝海舟を呼び寄せ、酒の相手をさせます。両者会談の後、勝海舟の手元にあった坂本龍馬の脱藩の罪は許されました。

このことが龍馬が未来へ向かい飛翔することにつながっていきます。

(安政の大津波幕府の震災対応と民間の救援活動)

さて時間を少々巻き戻しいたします。

植民地化の脅威を日本に突きつけた「日米和親条約」を締結させて、その役割を終えたペリー一行は、1854年6月1日に帰っていきました。

米国への開国をきっかけに欧米列強が日本に押し寄せることになり、イギリス、ロシア、オランダ、フランスといわゆる安政の5ヶ国条約を結ぶことになりました。パンフレットの15ページ参照

ロシアとの交渉中の1854年11月4日午前10時頃、突如大きな揺れが日本を襲います。安政の大地震です。大津波にも襲われ下田の町は壊滅します。ロシア艦隊のディアナ号も大破しました。

下田町の名主、現在の首長さんみたいなものですね、溺死します。当時の下田町とばれている区域の家は4軒しか残らず全て流されてしまっています。首長さんも含め、役人も住民も多数の命を失いました。

しかしこの日のうちに時の政府が緊急にお助け小屋を設置します。翌日の11月5日も地震と津波に襲われますが、11月6日には全壊後の下田の復旧作業、住民救済に着手します。なんと対応の早いことでしょう。

当時書かれた下田町会所文書には、『一夜を明かし目も当てられぬ次第、下田に出張していた奉行や諸役人がすぐに韮山代官所へ急用状を出し、直ちにお助け小屋を建て粥等を出してくれたので少しも不自由はなかった』という記載があります。

この翌日には町頭一同が集まり、町内の住人安否を確認し、被災者は役所と相談の上で親戚に預けられたり、幼い子どもや老人はお助け小屋で養育をすることになりました。

公儀より見舞金が被災1軒につき三分銀が支給されました。一両が四分銀ですから当座の生活に使える程度の金額だったと考えられます。そして役人から米や味噌も支給されたそうです。

ここまでが当時の行政の対応です。

どうでしょうか?東日本大震災への政府の対応をもう一度思い起こしてみてください。当時の財務大臣だった野田総理は、一刻も早く対応しなければならないときに、一貫して「増税なくして復興はなし」というスタンスで対応してきたのです。災害のために各国から寄せられた浄財もすぐに被災者に行き渡ることはありませんでした。

いまだに赤十字やユニセフで集めた巨額の義援金がどうなっているのか厚生労働省のHPで確認しましたが、不透明感はぬぐえませんでした。

被災者が本当に困るのは当座の生活費なんです。物資もお金がなければ買えません。

仙台空港が被災して使えず、空路が塞がれているとき、危険を顧みず米軍機が物資を載せて緊急着陸してくれたお陰で、自衛隊も参加し復旧作業にあたることが出来ました。

非常時には非常時の対応。その確固たる意思が無ければ政府は意味がありません。

東日本大震災で米軍や自衛隊の活躍がどれだけ国民の心を救ったのでしょうか?

感謝と尊敬の念を抱かずにはおれませんでした。

ここからは民間の救援活動です。

甲州天野伴蔵、石井村長左衛門、当町吉兵衛など当時の財界人の手によって、被災者に米や濡れ米などの食料が配給されました。お助け小屋に入った被災民は、民間援助によって日当を貰いながら、被災して崩壊した家の取り片づけの人足作業に出たということです。

女子供にいたるまでくまなく日当を貰えたので、この賃金を元手に自分たちが住むところを整える事が出来ました。

これが今から150年余前の震災対応です。

国家的規模の防災計画など無かったこの時代に、しっかりと住民は住民のやるべきこと、役所も国もやるべきことをやっていたのだと思います。

お互い様という愛するべき相互扶助の精神、日本人の道徳観、精神性を垣間見ることができます。

ここでちょっとしたエピソードをお話したいと思います。

先ほど民間救援活動で天野伴蔵という名前を出しました。

この人にかかわる「天野鍋」というお話です。

災害時には全国各地からいろいろな支援物資が送られてきます。もちろん救援物資というのはどれもこれも有難いものではありますが、下田に語り継がれているのは「鍋」なのです。それは煮炊きする鍋のことです。

甲州の天野伴蔵より送られてきた見舞いの品は、白米5百俵、鍋176個、布団500枚。白米5百俵もびっくりする量ですよね。一俵は60キロです。なんと30000キロ、30トンですよ。

イメージとしては引っ越し用の大型トラック10トン3台分でしょうか。

1俵でおよそ400食分くらいのようですから、おおよそ20万食ということになりましょうか。津波で家が流されたなら鍋もなかろう、鍋がなけりゃ煮炊きはできぬ、実に気の回ることです。

さて、この天野伴蔵さんは、当時15歳の少年です。とてもこんな判断はできません。父親の名前は海蔵といい、甲州境村の名主で裏の顔は博徒、そして黒鍬の棟梁でもありました。

黒鍬というのは今で言う土木建設業のことですから、天野海蔵さんは大手土建屋の社長さんでしょうか。

品川のお台場建設を手がけ、建材の石材を下田から搬出したお礼としての救援物資だったと言われています。

海蔵さん、当時関東一円を仕切っていた大親分、大場の久八の兄弟分でもあります。大場の久八の子分に下田の侠客、弁天の安太郎と本郷の金平がいます。任侠の世界のことです。この二人の存在が下田への救援につながったかもしれませんね。またちょっとだけ横道にずれますが、下田の侠客弁天の安太郎は、1961年の映画「鯉名の銀平」のモデルです。キャストは市川雷蔵と中村玉緒。橋幸夫が同名の主題歌を歌っていますね。そんなことで、いかにも港町ならではのエピソードでした。

(ハリスの功績 不平等条約・お吉)

安政の大地震の2年後、1856年7月、日米和親条約の規定に基づき、初代日本総領事ハリスが下田に着任し、下田の玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置されました。

それから3年間もの間下田に滞在し、日米通商条約の締結に向けて幕府との交渉に臨みました。粘り強い交渉の末、1858年6月に「日米修好通商条約」を横浜で調印。この後幕府は同様の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結びました。先ほども触れましたが、安政の五ヵ国条約いわゆる不平等条約の誕生です。

これが原因となり、安政の大獄、桜田門の変、大政奉還と大変な時代の幕開けとなります。

 どのような不平等があったのか、少し丁寧にお話しします。

先だってJRから発行された車内用の雑誌で下田の特集が組まれていたのですが、日米修好通商条約が不平等条約ではなかったという記載がありました。下田市在住の方の発言なのですが、東北新幹線ほか色々なところで目にする雑誌ですので、きちんと不平等条約の実態についてお話しておくべきだと思ったわけです。

 まず一つ目、貿易に使う通貨の換算の不平等です。日本の主張の基準は金を基本とするに対して、ハリスは金・銀・は等価で銀を基本にすると主張。銀の重さ(純度)から計算すると1ドル=一分銀一枚であるのに、ハリスの要求は1ドル=一分銀三枚でありました。図にしてありますので、そちらをご覧ください。

まず外国人商人がメキシコドル銀貨4枚を一分銀12枚に両替します。これを両替商に持ち込み天保小判三枚に両替します。これを国外に持ち出して地金として売却すればメキシコドル銀貨12枚になるといった具合です。これによって日本国内の金が大量に海外に出ていくことになりました。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしまた。

二つ目が治外法権です。日本の国内であるのに、外国の法で統治されます。領事裁判権によって多くの日本人が泣き寝入りをしなければなりませんでした。たとえば、明治19年のこと。イギリス貨物船ノルマント号事件がおこります。横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマント号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎の沖合いで難破します。その際、ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人々に救出され手厚く保護されました。ところが日本人乗客25名はただの一人も非難できたものがおらず、船中に取り残され溺死しました。

当時の国内世論は、ドレーク船長以下、船員の非人道的行為とそれに根ざす人種差別に怒りました。しかし治外法権の壁に阻まれ、検証作業も行えず、船長他全員が無罪になりました。その後世論の激しい怒りで再裁判が行われましたが、ドレーク船長に禁固三ヶ月。死者への賠償金は一切ありませんでした。開国当時、欧米列強が日本を、日本人をどう思っていたのかよくわかります。白人に対しての有色人種であり、奴隷に近い意識でいたのでしょう。今年もそういう事故がありましたね。幸いにも日本人乗客に被害はありませんでしたが。イタリア中部沖で豪華客船コスタ・コンコルディアが座礁し11人が死亡した事故です。

三つ目は関税自主権がないことです。それによって日本は自国産業を保護できず、関税収入によって国庫を潤すことも出来ませんでした。これが不平等条約でなくしてなんでありましょう。これらは全て日本の国家としての主権を侵害したものです。経済的にも国内産業の保護育成にも大きな障害となったために、明治政府は条約改正を外交上の最優先課題として取り組み、条約改正をし、真の独立国となるために国内法の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んでいったのです。

 ペリー艦隊の圧倒的な軍事力によって強制的に開国を迫られ、不平等条約を結ばざるを得ず、日本の存続のため、日本の独立のために50年の時をかけ不平等条約の解消に取り組んでいったのでした。

 さて米国の最大限の利益となる不平等条約を結ぶという成果をあげたハリスですが、親日家の一面もあったようです。ハリス日本滞在記の中で、「日本は喜望峰以東のいかなる民族より優秀である」と繰り返し云っています。また「日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と書いています。住んでいた下田についても「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにはあるまい」と記述しています。面映くなるほどの大絶賛です。ハリスが着任したのは安政の大地震の後ですから、田畑の塩害もあり作物も十分取れる状況ではなかったはずですし、インフラ整備も完全ではなかったはずです。そういう状況であるにもかかわらず、ハリスに大絶賛されたという所からも、当時の日本人の勤勉さ、誠実さ、精神性の高さを感じます。

 そうは言うもののハリスはなれない土地で、また慣れない食べ物で随分苦労し、度々体調を崩します。特に日本の根菜類は口に合わなかったらしく、唯一好きだったのがさつまいもでした。近くを通る外国船からバターなどを分けてもらっていたということなので、どんな料理を作ったのでしょう。想像はふくらんでいきます。

 このように体調を崩しがちなハリスは、幕府に対し身の回りの世話をする看護婦を要求します。それが「唐人お吉」です。唐人お吉の話は村松春水が描いた戯曲「実話唐人お吉」であり、史実とは異なる所があると思いますが、下田の歴史の1ページになっています。

 時の政府の「外交の生贄」にされた女性。ハリスが去った後のお吉の気持ちは、二人との本当の仲を知らない第三者には想像もできませんが、地元に住む私は雨が降り注ぐ下田の海を見つめながら、ぽつんと寂しげに佇んでいるお吉の後ろ姿をふと想像したりなどします。

彼女の胸のうちにあったのは異人であるハリスへの恋慕だったのでしょうか。

単なる寂しさであったのでしょうか。

それとも唐人と蔑まれた事への哀しさだったのでしょうか。

その斉藤きちの波乱に満ちた人生は、今の私と同じ年令で自ら幕を閉じました。

 それは一人の人間、斎藤きちの、勝手に独り歩きしてしまった「自分神話」への最後の抵抗であったのかもしれません。

ブログランキングに参加しています。 

皆さんのクリックが大きな力になります。

ポチお願い致します。m(_ _)m

人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

歴史に学ぶ~日本の開国と伊豆下田の関係~ その1

ブログランキングに参加しています。

皆さんのクリックが大きな力になります。 

ポチお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村人気ブログランキングへ

2月18日(土)日本論語研究会での講演、関係者の皆様、

準備の段階から過分なご指導を頂きお話をすることが出来ました。

講演では話しきれなかった部分もありますので、

数回に分けて原稿をアップすることに致しました。

動画は日本論語研究会の以下のページからご覧いただけます。

http://rongoken.jp/report/report201202.html

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

はじめに

(自己紹介)

皆様、はじめまして。

静岡県下田市議会議員・副議長、自民党所属 たさかとみよでございます。

漢字で書くと田坂富代。

下田の田に、坂上田村麻呂の坂、富士山の富に、君が代の代。

学生時代は富代なんて古臭い名前だなと反発していましたが、実は下田八幡神社の宮司さまがつけてくださったお名前で、今ではとても誇りに思っています。

日本のために、郷土のために、いつでもこの命を差し出し戦ってこいという、私の生きる道を体現した名前です。

生まれ育った街、伊豆下田で暮らしていて感じた、「何かおかしい」「これは見過ごせない」と引くに引けない、憤りにも似た思いで、政治家を目指し今に至っております。

下田はお茶と富士山で有名な静岡県、伊豆半島の最南端に位置する、海と山に囲まれた小さな地方都市ですが、実は日本の開国に大きな役割を果たしたところでもあります。

今日はその下田の歴史と日本の開国をテーマに、皆様にお話させていただこうと、この壇上に登らせて頂いております。

まず講演に先立ちまして、今回日本論語研究会でお話をさせて頂くようになった経緯を、簡単にご説明いたします。

私は平成18年から、東京永田町にあります、尾崎行雄記念財団が主催している「咢堂塾」いわゆる政経塾に通っておりまして、一昨年、そこで論語研究会の事務局の高橋さんと席を並べたのがきっかけでこちらの会を知りました。そして昨年の秋からこちらに足を運ばせて頂くようになった、まだまだ新参者です。

その高橋さんのご縁から、尾崎財団の石田事務局長が昨年こちらで講演をなさいまして、今回私にそのバトンが渡されたということでございます。

折角ですので尾崎行雄記念財団の咢堂塾の宣伝も少しだけさせて頂きます。

政経塾と申しましても、松下政経塾のように年齢制限などありません。学びたいと思うどこの誰でもが学ぶことが出来る会でございます。

政治家やジャーナリストという方たちだけでは無く、いろいろな分野の専門講師を迎え講義を聞き、その後グループディスカッションという流れで進みます。

毎年5月から2月までの10ヶ月間、合宿も含め年間16回の講義があります。

2011年の咢堂塾では田村重信先生が講義をして下さり、一番盛り上がった意義深い講義となりました。

本当にありがとうございました。今後も是非、講師にいらしていただけたら有難いなと思っております。

さて…私が咢堂塾から卒業できない、やめられないわけが一つありまして。

それは、尾崎財団の事務局長の石田さんと一緒に咢堂塾を始められた尾崎行雄の三女、故相馬雪香先生の「理念」を新しい塾生にしっかり伝えていきたい、そんな想いからなのです。

相馬先生は講義が終わると必ず塾生に向かって伝えていた言葉があります。

それは「先生の講義を聞いて、ああなるほどなと思っただけで帰ってもらっちゃ困る。それを聞いてあなたがまず何をするかです」

これをずっと言い続けてこられました。

これは私が市議会議員として政治活動をしていく上で、一番影響を受けたところなのです。論語で言うところの「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」です。

学ぶことと考えること、そして行動するという事が、すなわち「生涯学習」の意味であろうと私は考えております。

本日この会場にお越しいただいている皆様方の中で、興味を持っていただけた方がいらっしゃいましたら、パンフレットもございますのでぜひお問い合わせ頂きたいと思います。

政治活動をしていく上での行動指針が相馬さんの「あなたは何をするの?」なのですが、政治活動のきっかけになった「何かおかしい・見逃せない・引くにひけない」出来事を、「開国のまちづくりと権力構造」ということでちょっとだけお話をさせて頂きたいと思います。

この後私が政治家を目指したお話をさせて頂きました。

原稿はありません。

さて、それでは本日のテーマ「歴史に学ぶ・開国と伊豆下田の関係」をレジュメにそって進めてまいりたいと思います。宜しくお願い致します。

まず初めに下田ってどういうところなのか、地理的な部分も含めまして、ざっとお話をさせて頂きます。

下田市は伊豆半島の最南端に位置しており、神子元沖は潮流が激しく岩礁も多いため航海上の難所と言われております。

現在のような、陸路が輸送の中心になったのはたった50年ほど前のことで、それ以前の主要輸送手段は海路でありました。

風が吹けば下田港に入るという風待ち港としての役割がありました。現在も避難港として海がしけた時にはたくさんの船が入ります。

また江戸初期の頃にはご番所が置かれていたこともあり「入り鉄砲出女」の監視で、江戸への海路への出入りには必ず一度下田へ入り検閲を受けました。

その当時は出船入船三千隻ともいわれ、下田が大変賑やかな港町であったと言われています。

時代は下がりまして、開国当時も交通上の理由から、たくさんの歴史上の人物が下田に上陸しています。

ペリー、ハリス、プチャーチン、吉田松陰、勝海舟、山内容堂、板垣退助、皆さんご存知の方々ですよね。

現在の下田の様子ですが、こちらに観光パンフレットを持ってきておりますのでそちらもご覧いただけたらありがたいと思います。

(黒船祭・下田会議)

さて開国の史実を元に、昭和9年より毎年5月に行われております「黒船祭」は下田の一大祭りになっています。観光パンフレットの17ページをご覧下さい。

1979年6月27日にジミー・カーター大統領がタウンミーティングで下田を訪問された際は、賑わいを通り越して町中SPだらけの大騒動といった様子だったのが今でも目に浮かびます。

カーター大統領お手植えの「ハナミズキ」の木と記念碑が、毎年黒船祭の式典が行われる、下田公園にございます。

黒船祭は米国海軍と海上自衛隊が主役です。

昨年の東日本大震災では自衛隊も米軍も震災復興支援をしていたのでやむなく黒船祭は中止されましたが、2012年の今年は、被災地である岩手県下閉伊郡(しもへいぐん)山田町の町民の皆さんをゲストにお迎えし、また米国大使や静岡県知事などもご参加いただき、盛大に行われることになりそうです。

この黒船祭が草の根の民間外交だとしたら、トップレベルの民間外交といえるのが日米関係民間会議、通称下田会議です。

その第1回が1967914日に下田東急ホテルで開催されました。

下田会議は日米両国における戦後初の民間政策対話です。

1967年から1994年まで、日米間で重要な政策課題が生じた時、継続的に開催されてきました。

日米両国のより対等で活発な日米パートナーシップ醸成の出発点となったと評価されてきたそうであります。

資料を読んでいて、1994年でなぜ中止されたのだろう?という素朴な疑問が湧いて来ました。

時の政権は、村山内閣でした。

それが昨年の2月、2011222日、新・下田会議が東京で開催されました。HPに記載されている内容をちょっとかいつまんで読んでみます。

過去10年間、あるいは民主党政権が誕生するまで、両国の指導者は日米関係はゆるぎないものと受け止めていた。

自民党政権のもとでは、実は良好な日米関係が築かれていたのですね。

私も含めてですが、そのことに日本国民は目を向けてきませんでした。

何も無いことの裏には多くの何かがあります。

国民の知らないところで、ご努力をされた方がいたはずです。

マスコミからつまらない揚げ足取りばかりされてきた自民党政権ですが、いったい私達に何をしてきてくれたのでしょうか。

残念ながらメディアでは取り上げられないのです。

政治の場にいると有権者の方が思うより、はるかに激務です。

下田のような小さな自治体にいてもそう思うのですから、国を動かされている方の働きといったらそれは大変なものだと思います。

日本という国を守るという責任が政治家にはあります。国家という枠組みがなければ、私達日本人の命は繋いでいけません。少なくとも日米関係が良好であった10年間、どんなことが起こってどんな対応を政治がしてきたのか、私たちをどう守ってきてくれたのか、今後しっかりと検証したいと思っています。

伊豆下田と開国

(開国とは)

さて、いよいよ伊豆下田と開国という話に入ってまいります。

ここからはお配りした資料の年表を参考にしていただくと、つたない私の話も何とか解っていただけるのかなと思います。

世界史と日本史を分けて学ぶ弊害だと思っているのですが、「いつの時代に世界はどうだったか?その時日本は何をしたか?」という系統立てた歴史が私自身解っていなかったこともあり資料を作って見ました。

先に結論から言ってしまうと、私は、開国とは日本にとっての初めての「本格外交」であり、そのときの無能政権が欧米列強に対し国を売り渡した「事件」だったと捉えています。

ペリー艦隊が日本にやってきた最大の理由は、日本を植民地にするためでした。圧倒的な武力の差で不平等条約を結ばされましたが、最悪な事態は回避され、日本は欧米列強の植民地にはなりませんでした。明治維新を成し遂げた志士たちによって日本は守られたのです。

そもそも日本はなぜ鎖国をしていたのでしょうか。

それは一言で言えば、キリスト教による欧米の植民地化を回避するための日本の国としての政策だったのだと思います。そしてもうひとつ、外国人商人による奴隷貿易から日本の国民を守るためだったのです。

植民地化と奴隷という最大の危機にさらされていたのが信長・秀吉の時代だったのです。だからこそのバテレン追放ですね。

鎖国政策によって日本はとりあえず安全を勝ち取ったといってもよいと思います。鎖国といってもすべての国に頑なに門を閉ざしていたわけではなく、長崎の出島をはじめ国内4ヶ所における管理貿易体制を敷いたということなのです。

そして船が入港する条件として世界情勢の情報提供を義務付けていました。

さてこの鎖国政策が採られていた200年の間、幕府の政策は全てが国内に向けられました。

その結果お金が国内に集中することになり、江戸文化が日本独自に成熟していきます。特に元禄時代には経済が急成長したことによって、様々な庶民文化が生まれました。

私の好きな歌舞伎も、元禄時代を中心に飛躍的に発展しました。

「元禄歌舞伎」という言葉を聞いたことありますよね?江戸歌舞伎の特徴は「荒事」上方歌舞伎の特徴は「和事」と呼ばれています。言葉はわからないところもあるけれど、文句なしにエンターテイメントで面白いです。

江戸時代にはその他にもいろいろな日本独特の庶民文化が生まれています。

落語や講談、浮世絵、花火、俳句。お花見や紅葉狩り、月見に雪見、行楽も盛んになるのですね。食も新しいものが生まれていますよね。江戸前寿司、天ぷら、そば、鰻にどじょう・・・。やっぱり国内が治まっている時は、文化が発展します。しかもどれもが庶民の娯楽であり、江戸に生まれた文化は諸外国に誇れる美学でもあります。

日本人の豊かな精神性、道徳性もこの時代に生まれ育まれたものだと私は確信を持って言えます。様々なアイディアが生まれ、凝り性の人達によって大きく発展した。その意味で鎖国は、日本人の精神性を高め、その上で日本独自の文化まで押し上げたとも言えるでしょう。

 この鎖国時代の200年間、下田にはどんな文化が根付いたのだろう、ということで色々調べてみましたが、行き詰ってしまいました。

それは後でお話することになりますが、安政の大津波など自然災害による資料の消失。そして港町であるが故にいつも新しい情報と新しい住民が行き交い、独自文化の醸成まで至らなかったのではと考えています。

その中で唯一お話できるのは400年余の歴史のある下田八幡神社例大祭・通称下田太鼓祭りです。観光パンフレットの18ページに写真が載っておりますけれども、これが現在のお祭りの形態です。

このお祭りは大阪夏の陣で功名をあげた、二代下田奉行今村傅四郎正長公が制定したものです。

下田は長い戦乱と度重なる災害で大変疲弊しており、民が元気になり熱く燃え、一丸となるようなものをという狙いでこの太鼓を伝えたものと言われています。

祭神は応神天皇でお神輿は関西の形態。担ぎ方は関東流。八幡さんと八雲さんのお祭りの形式がごちゃまぜです。楽曲は恐らく三河地方からのものです。時代によって変化し続ける、「伝統」を無視した継続が、如何にも港町らしい下田の文化と言えるのかも知れませんね。

鎖国したからこそ日本特有の文化が育ったというお話をさせて頂きましたが、さて開国とは一体何だったのかというお話に戻ります。それを知るには当時の世界の情勢を知らなくては解りません。

 

(当時の世界の情勢)

近世500年間の海外進出への中心となった国は、大雑把には16世紀がポルトガル・スペイン、17世紀がオランダ、18世紀・19世紀がイギリス、20世紀がアメリカと見ることができます。日本でも有名なマルコポーロは当時暗黒大陸と思われていたアジアの情報をヨーロッパにもたらし、東方見聞録によってヨーロッパの視線をアジアに向ける鳥羽口になったと言うことはあまり知られていないエピソードですよね。

現在の言葉で言えば産業スパイのような役割だったのかも知れません。実際タタール人の奴隷をアジアから連れてきたという史実も残っております。

先ずは16世紀頃の大航海時代まで遡らなくてはなりません。大航海時代と名称だけは綺麗ですが、実態は欧州の白人至上主義によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地獲得のための海外進出です。いわゆる世界の国々の陣取り合戦だったと言えば解りやすいでしょうか?自国の権益を他国の奴隷を使って増やす、他国の資源を搾取するというのが実情でした。

決して純粋な対等貿易ではなく、植民地からの富の搾取という事です。

特にこの時代に次々と他国を武力で占領し、植民地を獲得していったのはポルトガルです。

そしてヨーロッパ諸国による奴隷貿易というものは15世紀にポルトガル人によって始まりました。キリスト教布教という名目のもとに他国の国民を洗脳して植民地化。ある意味狡猾で今でも用いられている手段でもありますね。

16世紀にはポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社が設立され、奴隷を売ってもらえないイギリスが奴隷狩りを行うまでになっています。

18世紀になるとイギリスやフランスは、アフリカ大陸において武器と奴隷を交換し、西インド諸島に売却、砂糖などを持ち帰る三角貿易が始まり、さらにイギリスの産業革命の基板であった綿の紡績工業は、奴隷貿易が呼び水となり開始されました。イギリスでの銀行設立や産業革命への資本金は、この奴隷貿易で得たものであると言われています。

さて16世紀から17世紀にかけての日本は、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなどのヨーロッパ諸国に、東南アジア区域の植民地維持のための拠点として重要視されていたようです。様々な物資が日本に輸出されており、そのなかに奴隷も含まれていました。先ほどお話した植民地化と奴隷という最大の危機の背景は、こういうことなのです。

さて、開国当時の世界の覇者はイギリスでありました。この当時のイギリスが植民地支配していたアジア区域は現在のインドをはじめとして、バングラディッシュ・パキスタン・ミャンマーなどで、清はアヘン戦争での勝利でほぼ植民地化されています。イギリスが植民地政策で大きな利益を上げていると知った欧州列強はアジアの植民地化をどんどん推し進めていきます。地図に示してありますので参考にしていただければと思います。

年表を見ていただくとわかるのですが、開国当時、ペリーによる開国から15年の間は、クリミア戦争や南北戦争などで欧米が東アジアにエネルギーを集中できる余裕がありませんでした。日本にとってはそのことが幸いし、志士の活躍によって明治維新を成し遂げることが出来たのです。

意外に知られていないことですが実は鎖国といっても、あくまで日本が主体の管理貿易体制であり、外国の船が日本へ入港する条件として、世界情勢の情報提供をさせていましたので、幕府にはアヘン戦争による清国の情報は入ってきていました。強大な清国がイギリスの圧力の前に手も足も出なかったという情報です。本来は鎖国という比較的平和な状況の時にこそ、世界情勢を視野に入れたしっかりとした防衛政策を行わなくてはならなかったのです。世界の情報を手に入れておきながら、何も策を講じ得なかった。

開国とは無能政権が欧米列強に対し国を売り飛ばしたといった意味はここにあります。

さて、ここでアヘン戦争のおさらいをしてみたいと思います。

当時のイギリスはお茶などを大量に清から輸入していました。一方イギリスから清に輸出していたのは富裕層向けの品ばかりで、イギリスの大幅な輸入超過でした。

困った東インド会社は植民地のインドで麻薬であるアヘンを栽培させ清に売り銀を買います。その銀でお茶を買うというとんでもない商売を始めます。

清の麻薬中毒患者は増え続け銀の流出は止まりません。当然清は抗議するも圧倒的な武力の差で、イギリスに屈服することになったわけです。

第二次アヘン戦争後の1862年、高杉晋作は幕府派遣の一団に加わり上海を視察します。晋作の見た上海は一見すると、華やかで活気に満ちあふれていたようです。しかし現地の中国人は奴隷の扱いを受けているのを目の当たりにします。

欧米人が豊かになればなるほど、植民地の人々は貧しくなる。これが欧米列強のアジアの植民地政策、いわゆる奴隷化です。

「我が日本もすでに覆轍を踏むの兆しあり」と痛感した晋作は、志士として日本を守るために走りだしていったのでしょう。 ここでひとりの女性を紹介しておきます。お名前を野村望東尼さんといいます。高杉晋作をはじめ西郷隆盛ら、勤皇の志士たちを庇護した方です。晋作の最後も看取っています。野村望東尼の影の支えがなければ、もしかしたら明治維新はなかったかもしれません。

アヘン戦争による被害は清だけではありません。アヘンを栽培しているインドでも、現地のインド人はどんどん貧しくなります。

限られた農地は、インド人の食料ではなく芥子の花を大量に栽培しているのですから、作れば作るほど飢えに苦しむねじれた構造です。

欧米列強はこのような植民地政策で自国の利益だけを追求していきます。

その根底にあるのは白人に対しての有色人種差別。白人以外は人にあらずという考え方が根底にあったためでしょう。

これこそが植民地支配、文化侵略であり、併合とは全く性質の違うものだということを、私たち日本人は理解しておかなくてはなりません。

植民地支配とは領有権を主張するけれど、そこの住む人々は自国民と認めず、自国の利益のためだけの単なる単純労働力、奴隷のように扱われます。

一方併合は、宗主国と併合した国を同化するもので、住民を自国民として扱い、教育も公共サービスも自国民と同じように提供するのです。日本が中韓を植民地にしたと言われますが、日本は中韓の人間を奴隷扱いなどしていません。インフラを整え学校を作り教育に力を注いだというのが事実なのです。

いわゆる韓国の併合は欧米の植民地支配とは全く性質の違うものなのです。

ここを意図的に混同させようとする輩が日教組を中心に

跳梁跋扈

(

ちょうりょうばっこ

)

していますが、日本は欧米のような奴隷貿易などやってはいません。実際韓国の併合について調べても併合前のソウルの写真と、併合後のソウルの写真では文化水準度が著しく上がっているのだという事実は忘れてはいけない事だと思います。

当時の世界情勢をお話してきました。それではその頃の日本に目を戻しましょう。長い鎖国で外国からの干渉も受けずにいたため、政府が平和ボケの状態でありました。しかしそんな中にも明日の日本を憂いながらも、しっかりとした国の政策を描いた様々な集団や個人が動き始めます。それらが離合集散しながら、時には大きな犠牲を払いながらも着実にひとつの方向に向かって流れていきました。

 幕末の動乱は結果的に開国となりましたが、最終的なゴールは攘夷でありその手段を巡る戦いでした。

ブログランキングに参加しています。 

皆さんのクリックが大きな力になります。

ポチお願い致します。m(_ _)m

人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村

| | コメント (0)

沖縄の屏風の隠しメッセージ?

「私の今年の抱負は『温故知新』です」と、201211日のブログに宣言してしまいました。

毎月1回慶応義塾大学の教室で開催される日本論語研究会で論語を学び始めた事がきっかけで、古典から学ぶ、歴史から学ぶということを今年の目標にしたのですが、またその事がきっかけになり、中国の漢文全般にも興味を持ちました。

下田出身の陽明学者中根東里は絶後の詩才を讃えられた方でありましたし

漢文の成り立ちを紐解く事で、改めて日本語の再学習にもなりますし、中国文化を知る一端にもなります。
気になった漢文はなるべくきちんと意味を考えようと思っています。

私の尊敬する下田の郷土史家、土橋一徳先生も漢文に精通していらっしゃいます。

石碑などは漢文が多いですし、歴史を知るには漢文は必須科目なのですね。


前回のエントリー「国を護るということ」を書いていた時、自衛隊関連の情報を探していて偶然見つけました。

http://www.boueinews.com/news/2002/20021215_1.html

Okinawa5_2

この屏風って、沖縄県知事の会見などでよく見かけますよね。

鳩山総理の沖縄訪問の時にも…

http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/actions/201005/23okinawa.html

Okinnawa3_2

なんて書いてあるんだろう。

ワクワクしながら調べ始めました。

http://www.pref.okinawa.jp/chiji_inamine/byobu/kanbun.html

Okinawa7_2

「万国津梁の鐘」の文字(第1知事応接室の屏風)

琉球国は南海の勝地にして三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車(ほしゃ)となし、日域を以て唇歯(しんし)となして、此の二つの中間にありて湧出せる蓬莱(ほうらい)島なり舟楫(しゅうしゅう)を以て万国の津梁(しんりょう)となし、異産至宝は十方刹(さつ)に充満し、地靈人物は遠く和夏の仁風を扇ぐ。故に吾が王、大世(おおよ)の主、庚寅(かのえのとら)に慶生す。尚泰久(しょうたいきゅう)なり。
茲(ここ)に、宝位を高天に承(う)け、蒼生(そうせい)を厚地に育む。三宝を興隆し、四恩に報酬せんがために新たに巨鐘を鋳(い)て、以て本州中山国王殿の前に就(つ)け、これを掛着(かいちゃく)す。憲章を三代の後より定め、文武を百王の前よりあつめ、下は三界の群生(ぐんせい)を済(すく)ひ、上は万歳の宝位を祝ふ。辱(かたじ)けなくも、相国の住持溪隠安潜叟(けいいんあんせいそう)に命じて、銘を求む。銘に曰く。須弥(しゅみ)の南畔、世界洪宏(こうこう)たり。吾が王出現して、苦しめる衆生(しゅうせい)を済ふ。流れを截(た)つ玉象、月に吼(ほ)ゆる華鯨(かげい)、四海に泛溢(はんいつ)し、梵音声(ぼんおんじょう)を震はし、長夜の夢を覚まし、感天の誠を輸(いた)す。堯風(きょうふう)は永く扇ぎ、舜日(しゅんじつ)は益ます明らかなり。  戊寅(つちのえとら)のとしの六月十九日辛亥(かのとい)のひ    大工 藤原国善

住相国溪隠叟、これを誌(しる)す。

と、ありました。

要約すると、

(琉球国は、大明国(中国)を支えとし、日本と兄弟のよしみを結び、

船を万国の架け橋として貿易を行う、という意味のようです。

三韓とは現在の韓国のことでは無く新羅、百済、高句麗のことだと考えられます。

李氏朝鮮を三韓と表記はしないと思います。


この漢文の大意は、琉球(現在の沖縄県)は明(現在の中国)に従属しますよっていう、ある意味で琉球王国の属国の宣誓文章ではないですか?

調べてみるとこの鐘が作られたのは1458年のようです。

http://oki-park.jp/shurijo-park/about/ryukyu.html

沖縄県の首里城の公式HPにはこう説明されています。

海外貿易の気概を刻む万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘を正殿に掛ける。

この漢文の意味は本当にそういう意味なのでしょうか? 


http://www.dc.ogb.go.jp/nahakou/rekishi/01_2.html

仲井真知事って、確か中国人の子孫を標榜していますよね?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E4%BA%95%E7%9C%9E%E5%BC%98%E5%A4%9A

この画像は、まるで日本国が中華人民共和国に頭を下げてるみたいです。

Okinawa9_3

前記のような意味がこめられた漢文の屏風の前で、日本国の代表である総理が沖縄知事に深々と頭を下げ、申し訳ありませんでしたという。

これって中国人が見た時、何と思うでしょうか。そういう想像力も無いのでしょうか?


そういえば前沖縄県知事の稲嶺さんも中国出身でしたよね。当時は日本だった大連ですけれど。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%B6%BA%E6%81%B5%E4%B8%80

この屏風、一体いつの頃から沖縄県知事室に飾られたのでしょうか?

http://www.pref.okinawa.jp/chiji/byoubu/01.html

写真を見ると最後に平成三年葉月と読めるのですけれど。

Okinawa8_2

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/ko_2000/outline/jp/info.html

沖縄でサミットが開催されたのが20007月。

平成3年は1991年ですから、今から21年も前からあったようですね。

葉月は旧暦の8月。さて1991年の8月に沖縄で何があったのでしょうか?

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-150823-storytopic-180.html

どうやら旧社会党系の大田昌秀さんの頃のようです。

この屏風を発注して知事室に飾った人は、この文章の内容を知っていての事なのでしょうか?

県知事室だけじゃなく、ありとあらゆる公式見解の場所にわざわざ運んできているのは何故でしょうか?

そしてそれはいったい何の目的なのでしょうか?

知事室に飾られる屏風は、「沖縄は日本ではない琉球王国である」という主張に見えなくもありません。

まさか歴代の沖縄県知事が反日感情をお持ちとは思えないのですが。

沖縄県知事のHPのどこにも日の丸が無いのが気になりました。

少し琉球王国の歴史について調べてみようかなと思っています。

ブログランキングに参加しています。

あなたのクリックが明日の活力になります。

ポチ宜しくお願い致します。m(_ _)m

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

| | コメント (3)

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »