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歴史に学ぶ~日本の開国と伊豆下田の関係~ その2

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(ペリーの黒船 捕鯨・日米和親条約)

 世界の覇者イギリスがクリミア戦争に力をそがれていた頃、ペリーが日本へやってきます。もともとアメリカの目は日本にはなくまず中国市場ありきでした。日本に来た目的は「難破船員の保護」と「石炭・食料・水の補給」です。捕鯨の中継基地を確保する目的が主で、貿易はそれほど重要視されていませんでした。19世紀初頭からアメリカの捕鯨は急成長します。この捕鯨について少し遡ってお話をいたしますが、欧米の捕鯨の目的は灯火用の鯨油の採取で、今で言う石油などのエネルギー資源と同じです。日本とは捕鯨に対する考え方が全く違うという認識を持っていただきたいと思います。

大がかりな捕鯨は11世紀、イベリア半島のビスケー湾を起源とします。1560年代に最盛期を迎え漁場は大西洋にまで及んでいます。鯨油のもたらす利益の大きさは、鯨の乱獲へ繋がっていきます。1590年代になるとスピッツベルゲン島の漁場をめぐってイングランドとオランダが争い、捕鯨船は武装化し大きくなっていきます。1630年代後半にはスピッツベルゲンの資源が枯渇し、漁場は北大西洋に移っていきます。波の高い外洋を乗り切るために捕鯨船はますます大型化されていきます。この頃の欧州各国の乱獲により北大西洋のコククジラは絶滅します。

さてアメリカは乱獲による資源の枯渇から沿岸操業がかなわなくなり、18世紀になると船を大型化し太平洋全域に漁場を求めます。1820年代には日本周辺にもやってきます。日本周辺はきわめて資源豊富な漁場であり多くの捕鯨船が集まってきました。アメリカ式の捕鯨というのは油を採取し他はすべて捨ててしまうという完全な商業捕鯨です。捕獲した鯨を船上で解体し、皮などを釜で煮て油を採り樽詰めし、薪と水を出先で補給しながら最長4年位の航海を続けるという方式です。鯨の肉・骨・その他、すべて海洋投棄します。このように当初アメリカは捕鯨の中継基地としての役割を日本に求めたのです。

この頃イギリスは産業革命により石炭ガスなどの新エネルギーの開発から、鯨油が商売として成り立たなくなり、捕鯨は衰退しています。

ここで日本の捕鯨についても少し触れておきます。奈良時代の文献には「いなさとり」という捕鯨を意味する枕詞が出てきます。江戸時代になると水軍から発生した鯨組という捕鯨専門集団が出現します。鯨組は捕獲から解体、鯨油抽出・鯨肉塩漬けなどの他、農業資材や工芸品などの商品の加工までを行う数千人規模の巨大な組織になり、藩からの支援も受け商品は全国に流通しています。多数の労働者を抱える日本の古式捕鯨は、共同体を大切にする日本の文化が育てたものでしょう。捕鯨を生業とした地域には鯨に対する感謝から、鯨を祀る神社も多くあります。捕鯨についても商業をベースにした欧米と、共同体の利益をベースにした日本とでは全く文化が違うということがわかります。

アメリカが当初の捕鯨目的から貿易にも目を向けなくてはならなくなったのは、ロシアの脅威がありました。ロシアはアムール川沿岸をロシア領とするために中国と、また北方領土も我がものにと日本との国境問題が発生していました。この時アメリカはロシアが日本を占領した時、太平洋の貿易を支配するという危機感を持ったのです。ロシアの存在が日本に対するアメリカの政策を転換させました。

そしてペリーは2度目来航の時、浦賀を過ぎてずっと江戸湾に深く入り込み、船も前回の4隻から9隻の大艦隊でやって来ます。そして17発の礼砲の轟く中500人を超える兵士が上陸します。この圧倒的な武力を見せつけられ幕府は横浜で日米和親条約を結びます。この条約の主な内容は第2条アメリカに物資を補給するために下田と函館を開港すること。第3条漂流民の救助・引渡し。第5条アメリカ人居留地を下田に設定する。第9条片務的最恵国待遇。どうも日本は昔から9条がネックになっていますね。

 この後交渉の場を下田に移し日米和親条約附則13か条・通称下田条約を結びます。アメリカ人の遊歩区域や埋葬地、水先案内港務官を置くなどが定められます。下田の7里四方がアメリカ人が自由に歩きまわれる特区になったんですね。当時の下田町民の驚き、如何ばかりだったでしょうか。

   

(下田における吉田松陰と勝海舟)

幕末、開国、明治維新という時代の流れの中で、今でも人気がある方達…。

若き獅子3人、坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟。

この中で一番下田に縁が深いのは、吉田松陰でしょうか。パンフレットの14ページも参考にしてください。

資料にてご紹介してあります下田小学校の校歌の三番。

「南に広き下田港 平和の海に漕ぎいでて 文化の幸を求めんと 学ぶ我らの意気高し」

これは吉田松陰と金子重輔の「踏海の朝」を歌ったものだと、私は解釈しております。

下田市柿崎の弁天島から吉田松陰と金子重輔が、「文化の幸をもとめんと」アメリカ留学を夢見て、黒船に乗り込むため伝馬船で漕ぎ出したのです。若き松陰が「異文化との遭遇」を夢見て、そこから何を吸収しようとしたのかとても気になります。

吉田松陰が金子重輔と共に、下田入りしてからどのような動きをしたのか、お話してみたいと思います。

1854318日の午後二人は下田入りします。下田見物という名目で岡方屋に宿をとり、326日までは蓮台寺温泉に行ったり部屋で書物を読むなどしています。そして327日の夜決行するも謀る所成らずで、翌日自訴し就縛となります。

吉田松陰「回顧録」によれば、ポーハタン号に乗り込む時に乗ってきた伝馬船が荷物を乗せたまま流されてしまいます。

この荷物の中身も資料に記載致しましたのでご覧ください。

 色々なものが入っています。鰹節とかスルメも入っていますね。

これを見ると色々想いは巡ります。

これからアメリカに渡航をするのだ、異国で学ぶのだと夢と希望を持って作った荷物です。

ところが一瞬にして、その生きるための荷物が、松陰に死を決意させるものになってしまいました。

ポーハタン号から降ろされ、柿崎の島影に身を隠した時、彼の心にどのような思いがあったのでしょう。

これから異国の文化を吸収し学ぼう、日本のために働こうとした矢先なのです。

この荷物は身を隠した数時間の松陰の心の揺れ動きを慮る、とても情緒的な物的証拠だと思うのです。

 この後の松陰の日本での活躍はここでお話するまでもありませんね。

この時一度は死を覚悟した松陰は、自分の理想や理念を一刻も早く後継しよう、そう考えたのではではないでしょうか。

私は松陰の天命というのは、就縛後の「国家という理念を持った人材を養成する」事だったのではないか、そう思うのです。

 松陰が大義を果たそうと命をかける姿を、母の滝はどんな思いで見てきたのか。

同じ子を持つ母として心を寄せずにはいられません。母にとっては自分の命よりも、何よりも大切なこどもの命です。

それを見守り続けるという心の逞しさ、強靭さ。決して表には出ないけれども、松陰以上の大義をもってあの時代を生きぬかれたのだと思うのです。

当時の女としての役割を見事に果たした母親、滝の姿に感銘を受けずにはいられません。

私は松陰の母、滝を思うとき、本日起こしになっているでしょうか。車椅子の葛飾区議会議員・村松勝康先生のお母様、村松ミヨさんと姿が重なります。肢体不自由の勝康少年を背負い、雨の日も風の日も学校へ通わせたお母様です。母親の心の逞しさ、強靭さ、そして慈愛。お二人のお母様に共通したものでありましょう。(本の紹介)

吉田松陰が下田に来てから9年後の1863年、坂本竜馬にかかわる物語がありました。土佐藩のお殿様の山内容堂一行が江戸からの帰り、悪天候のため下田に立ち寄ります。この時に勝海舟も同様に下田に入ります。そのことを聞いた山内容堂が本陣を構える宝福寺に勝海舟を呼び寄せ、酒の相手をさせます。両者会談の後、勝海舟の手元にあった坂本龍馬の脱藩の罪は許されました。

このことが龍馬が未来へ向かい飛翔することにつながっていきます。

(安政の大津波幕府の震災対応と民間の救援活動)

さて時間を少々巻き戻しいたします。

植民地化の脅威を日本に突きつけた「日米和親条約」を締結させて、その役割を終えたペリー一行は、1854年6月1日に帰っていきました。

米国への開国をきっかけに欧米列強が日本に押し寄せることになり、イギリス、ロシア、オランダ、フランスといわゆる安政の5ヶ国条約を結ぶことになりました。パンフレットの15ページ参照

ロシアとの交渉中の1854年11月4日午前10時頃、突如大きな揺れが日本を襲います。安政の大地震です。大津波にも襲われ下田の町は壊滅します。ロシア艦隊のディアナ号も大破しました。

下田町の名主、現在の首長さんみたいなものですね、溺死します。当時の下田町とばれている区域の家は4軒しか残らず全て流されてしまっています。首長さんも含め、役人も住民も多数の命を失いました。

しかしこの日のうちに時の政府が緊急にお助け小屋を設置します。翌日の11月5日も地震と津波に襲われますが、11月6日には全壊後の下田の復旧作業、住民救済に着手します。なんと対応の早いことでしょう。

当時書かれた下田町会所文書には、『一夜を明かし目も当てられぬ次第、下田に出張していた奉行や諸役人がすぐに韮山代官所へ急用状を出し、直ちにお助け小屋を建て粥等を出してくれたので少しも不自由はなかった』という記載があります。

この翌日には町頭一同が集まり、町内の住人安否を確認し、被災者は役所と相談の上で親戚に預けられたり、幼い子どもや老人はお助け小屋で養育をすることになりました。

公儀より見舞金が被災1軒につき三分銀が支給されました。一両が四分銀ですから当座の生活に使える程度の金額だったと考えられます。そして役人から米や味噌も支給されたそうです。

ここまでが当時の行政の対応です。

どうでしょうか?東日本大震災への政府の対応をもう一度思い起こしてみてください。当時の財務大臣だった野田総理は、一刻も早く対応しなければならないときに、一貫して「増税なくして復興はなし」というスタンスで対応してきたのです。災害のために各国から寄せられた浄財もすぐに被災者に行き渡ることはありませんでした。

いまだに赤十字やユニセフで集めた巨額の義援金がどうなっているのか厚生労働省のHPで確認しましたが、不透明感はぬぐえませんでした。

被災者が本当に困るのは当座の生活費なんです。物資もお金がなければ買えません。

仙台空港が被災して使えず、空路が塞がれているとき、危険を顧みず米軍機が物資を載せて緊急着陸してくれたお陰で、自衛隊も参加し復旧作業にあたることが出来ました。

非常時には非常時の対応。その確固たる意思が無ければ政府は意味がありません。

東日本大震災で米軍や自衛隊の活躍がどれだけ国民の心を救ったのでしょうか?

感謝と尊敬の念を抱かずにはおれませんでした。

ここからは民間の救援活動です。

甲州天野伴蔵、石井村長左衛門、当町吉兵衛など当時の財界人の手によって、被災者に米や濡れ米などの食料が配給されました。お助け小屋に入った被災民は、民間援助によって日当を貰いながら、被災して崩壊した家の取り片づけの人足作業に出たということです。

女子供にいたるまでくまなく日当を貰えたので、この賃金を元手に自分たちが住むところを整える事が出来ました。

これが今から150年余前の震災対応です。

国家的規模の防災計画など無かったこの時代に、しっかりと住民は住民のやるべきこと、役所も国もやるべきことをやっていたのだと思います。

お互い様という愛するべき相互扶助の精神、日本人の道徳観、精神性を垣間見ることができます。

ここでちょっとしたエピソードをお話したいと思います。

先ほど民間救援活動で天野伴蔵という名前を出しました。

この人にかかわる「天野鍋」というお話です。

災害時には全国各地からいろいろな支援物資が送られてきます。もちろん救援物資というのはどれもこれも有難いものではありますが、下田に語り継がれているのは「鍋」なのです。それは煮炊きする鍋のことです。

甲州の天野伴蔵より送られてきた見舞いの品は、白米5百俵、鍋176個、布団500枚。白米5百俵もびっくりする量ですよね。一俵は60キロです。なんと30000キロ、30トンですよ。

イメージとしては引っ越し用の大型トラック10トン3台分でしょうか。

1俵でおよそ400食分くらいのようですから、おおよそ20万食ということになりましょうか。津波で家が流されたなら鍋もなかろう、鍋がなけりゃ煮炊きはできぬ、実に気の回ることです。

さて、この天野伴蔵さんは、当時15歳の少年です。とてもこんな判断はできません。父親の名前は海蔵といい、甲州境村の名主で裏の顔は博徒、そして黒鍬の棟梁でもありました。

黒鍬というのは今で言う土木建設業のことですから、天野海蔵さんは大手土建屋の社長さんでしょうか。

品川のお台場建設を手がけ、建材の石材を下田から搬出したお礼としての救援物資だったと言われています。

海蔵さん、当時関東一円を仕切っていた大親分、大場の久八の兄弟分でもあります。大場の久八の子分に下田の侠客、弁天の安太郎と本郷の金平がいます。任侠の世界のことです。この二人の存在が下田への救援につながったかもしれませんね。またちょっとだけ横道にずれますが、下田の侠客弁天の安太郎は、1961年の映画「鯉名の銀平」のモデルです。キャストは市川雷蔵と中村玉緒。橋幸夫が同名の主題歌を歌っていますね。そんなことで、いかにも港町ならではのエピソードでした。

(ハリスの功績 不平等条約・お吉)

安政の大地震の2年後、1856年7月、日米和親条約の規定に基づき、初代日本総領事ハリスが下田に着任し、下田の玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置されました。

それから3年間もの間下田に滞在し、日米通商条約の締結に向けて幕府との交渉に臨みました。粘り強い交渉の末、1858年6月に「日米修好通商条約」を横浜で調印。この後幕府は同様の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結びました。先ほども触れましたが、安政の五ヵ国条約いわゆる不平等条約の誕生です。

これが原因となり、安政の大獄、桜田門の変、大政奉還と大変な時代の幕開けとなります。

 どのような不平等があったのか、少し丁寧にお話しします。

先だってJRから発行された車内用の雑誌で下田の特集が組まれていたのですが、日米修好通商条約が不平等条約ではなかったという記載がありました。下田市在住の方の発言なのですが、東北新幹線ほか色々なところで目にする雑誌ですので、きちんと不平等条約の実態についてお話しておくべきだと思ったわけです。

 まず一つ目、貿易に使う通貨の換算の不平等です。日本の主張の基準は金を基本とするに対して、ハリスは金・銀・は等価で銀を基本にすると主張。銀の重さ(純度)から計算すると1ドル=一分銀一枚であるのに、ハリスの要求は1ドル=一分銀三枚でありました。図にしてありますので、そちらをご覧ください。

まず外国人商人がメキシコドル銀貨4枚を一分銀12枚に両替します。これを両替商に持ち込み天保小判三枚に両替します。これを国外に持ち出して地金として売却すればメキシコドル銀貨12枚になるといった具合です。これによって日本国内の金が大量に海外に出ていくことになりました。ハリス自身もこの両替によって私財を増やしまた。

二つ目が治外法権です。日本の国内であるのに、外国の法で統治されます。領事裁判権によって多くの日本人が泣き寝入りをしなければなりませんでした。たとえば、明治19年のこと。イギリス貨物船ノルマント号事件がおこります。横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマント号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎の沖合いで難破します。その際、ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人々に救出され手厚く保護されました。ところが日本人乗客25名はただの一人も非難できたものがおらず、船中に取り残され溺死しました。

当時の国内世論は、ドレーク船長以下、船員の非人道的行為とそれに根ざす人種差別に怒りました。しかし治外法権の壁に阻まれ、検証作業も行えず、船長他全員が無罪になりました。その後世論の激しい怒りで再裁判が行われましたが、ドレーク船長に禁固三ヶ月。死者への賠償金は一切ありませんでした。開国当時、欧米列強が日本を、日本人をどう思っていたのかよくわかります。白人に対しての有色人種であり、奴隷に近い意識でいたのでしょう。今年もそういう事故がありましたね。幸いにも日本人乗客に被害はありませんでしたが。イタリア中部沖で豪華客船コスタ・コンコルディアが座礁し11人が死亡した事故です。

三つ目は関税自主権がないことです。それによって日本は自国産業を保護できず、関税収入によって国庫を潤すことも出来ませんでした。これが不平等条約でなくしてなんでありましょう。これらは全て日本の国家としての主権を侵害したものです。経済的にも国内産業の保護育成にも大きな障害となったために、明治政府は条約改正を外交上の最優先課題として取り組み、条約改正をし、真の独立国となるために国内法の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んでいったのです。

 ペリー艦隊の圧倒的な軍事力によって強制的に開国を迫られ、不平等条約を結ばざるを得ず、日本の存続のため、日本の独立のために50年の時をかけ不平等条約の解消に取り組んでいったのでした。

 さて米国の最大限の利益となる不平等条約を結ぶという成果をあげたハリスですが、親日家の一面もあったようです。ハリス日本滞在記の中で、「日本は喜望峰以東のいかなる民族より優秀である」と繰り返し云っています。また「日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と書いています。住んでいた下田についても「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにはあるまい」と記述しています。面映くなるほどの大絶賛です。ハリスが着任したのは安政の大地震の後ですから、田畑の塩害もあり作物も十分取れる状況ではなかったはずですし、インフラ整備も完全ではなかったはずです。そういう状況であるにもかかわらず、ハリスに大絶賛されたという所からも、当時の日本人の勤勉さ、誠実さ、精神性の高さを感じます。

 そうは言うもののハリスはなれない土地で、また慣れない食べ物で随分苦労し、度々体調を崩します。特に日本の根菜類は口に合わなかったらしく、唯一好きだったのがさつまいもでした。近くを通る外国船からバターなどを分けてもらっていたということなので、どんな料理を作ったのでしょう。想像はふくらんでいきます。

 このように体調を崩しがちなハリスは、幕府に対し身の回りの世話をする看護婦を要求します。それが「唐人お吉」です。唐人お吉の話は村松春水が描いた戯曲「実話唐人お吉」であり、史実とは異なる所があると思いますが、下田の歴史の1ページになっています。

 時の政府の「外交の生贄」にされた女性。ハリスが去った後のお吉の気持ちは、二人との本当の仲を知らない第三者には想像もできませんが、地元に住む私は雨が降り注ぐ下田の海を見つめながら、ぽつんと寂しげに佇んでいるお吉の後ろ姿をふと想像したりなどします。

彼女の胸のうちにあったのは異人であるハリスへの恋慕だったのでしょうか。

単なる寂しさであったのでしょうか。

それとも唐人と蔑まれた事への哀しさだったのでしょうか。

その斉藤きちの波乱に満ちた人生は、今の私と同じ年令で自ら幕を閉じました。

 それは一人の人間、斎藤きちの、勝手に独り歩きしてしまった「自分神話」への最後の抵抗であったのかもしれません。

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