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歴史に学ぶ~日本の開国と伊豆下田の関係~ その1

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2月18日(土)日本論語研究会での講演、関係者の皆様、

準備の段階から過分なご指導を頂きお話をすることが出来ました。

講演では話しきれなかった部分もありますので、

数回に分けて原稿をアップすることに致しました。

動画は日本論語研究会の以下のページからご覧いただけます。

http://rongoken.jp/report/report201202.html

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

はじめに

(自己紹介)

皆様、はじめまして。

静岡県下田市議会議員・副議長、自民党所属 たさかとみよでございます。

漢字で書くと田坂富代。

下田の田に、坂上田村麻呂の坂、富士山の富に、君が代の代。

学生時代は富代なんて古臭い名前だなと反発していましたが、実は下田八幡神社の宮司さまがつけてくださったお名前で、今ではとても誇りに思っています。

日本のために、郷土のために、いつでもこの命を差し出し戦ってこいという、私の生きる道を体現した名前です。

生まれ育った街、伊豆下田で暮らしていて感じた、「何かおかしい」「これは見過ごせない」と引くに引けない、憤りにも似た思いで、政治家を目指し今に至っております。

下田はお茶と富士山で有名な静岡県、伊豆半島の最南端に位置する、海と山に囲まれた小さな地方都市ですが、実は日本の開国に大きな役割を果たしたところでもあります。

今日はその下田の歴史と日本の開国をテーマに、皆様にお話させていただこうと、この壇上に登らせて頂いております。

まず講演に先立ちまして、今回日本論語研究会でお話をさせて頂くようになった経緯を、簡単にご説明いたします。

私は平成18年から、東京永田町にあります、尾崎行雄記念財団が主催している「咢堂塾」いわゆる政経塾に通っておりまして、一昨年、そこで論語研究会の事務局の高橋さんと席を並べたのがきっかけでこちらの会を知りました。そして昨年の秋からこちらに足を運ばせて頂くようになった、まだまだ新参者です。

その高橋さんのご縁から、尾崎財団の石田事務局長が昨年こちらで講演をなさいまして、今回私にそのバトンが渡されたということでございます。

折角ですので尾崎行雄記念財団の咢堂塾の宣伝も少しだけさせて頂きます。

政経塾と申しましても、松下政経塾のように年齢制限などありません。学びたいと思うどこの誰でもが学ぶことが出来る会でございます。

政治家やジャーナリストという方たちだけでは無く、いろいろな分野の専門講師を迎え講義を聞き、その後グループディスカッションという流れで進みます。

毎年5月から2月までの10ヶ月間、合宿も含め年間16回の講義があります。

2011年の咢堂塾では田村重信先生が講義をして下さり、一番盛り上がった意義深い講義となりました。

本当にありがとうございました。今後も是非、講師にいらしていただけたら有難いなと思っております。

さて…私が咢堂塾から卒業できない、やめられないわけが一つありまして。

それは、尾崎財団の事務局長の石田さんと一緒に咢堂塾を始められた尾崎行雄の三女、故相馬雪香先生の「理念」を新しい塾生にしっかり伝えていきたい、そんな想いからなのです。

相馬先生は講義が終わると必ず塾生に向かって伝えていた言葉があります。

それは「先生の講義を聞いて、ああなるほどなと思っただけで帰ってもらっちゃ困る。それを聞いてあなたがまず何をするかです」

これをずっと言い続けてこられました。

これは私が市議会議員として政治活動をしていく上で、一番影響を受けたところなのです。論語で言うところの「子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)」です。

学ぶことと考えること、そして行動するという事が、すなわち「生涯学習」の意味であろうと私は考えております。

本日この会場にお越しいただいている皆様方の中で、興味を持っていただけた方がいらっしゃいましたら、パンフレットもございますのでぜひお問い合わせ頂きたいと思います。

政治活動をしていく上での行動指針が相馬さんの「あなたは何をするの?」なのですが、政治活動のきっかけになった「何かおかしい・見逃せない・引くにひけない」出来事を、「開国のまちづくりと権力構造」ということでちょっとだけお話をさせて頂きたいと思います。

この後私が政治家を目指したお話をさせて頂きました。

原稿はありません。

さて、それでは本日のテーマ「歴史に学ぶ・開国と伊豆下田の関係」をレジュメにそって進めてまいりたいと思います。宜しくお願い致します。

まず初めに下田ってどういうところなのか、地理的な部分も含めまして、ざっとお話をさせて頂きます。

下田市は伊豆半島の最南端に位置しており、神子元沖は潮流が激しく岩礁も多いため航海上の難所と言われております。

現在のような、陸路が輸送の中心になったのはたった50年ほど前のことで、それ以前の主要輸送手段は海路でありました。

風が吹けば下田港に入るという風待ち港としての役割がありました。現在も避難港として海がしけた時にはたくさんの船が入ります。

また江戸初期の頃にはご番所が置かれていたこともあり「入り鉄砲出女」の監視で、江戸への海路への出入りには必ず一度下田へ入り検閲を受けました。

その当時は出船入船三千隻ともいわれ、下田が大変賑やかな港町であったと言われています。

時代は下がりまして、開国当時も交通上の理由から、たくさんの歴史上の人物が下田に上陸しています。

ペリー、ハリス、プチャーチン、吉田松陰、勝海舟、山内容堂、板垣退助、皆さんご存知の方々ですよね。

現在の下田の様子ですが、こちらに観光パンフレットを持ってきておりますのでそちらもご覧いただけたらありがたいと思います。

(黒船祭・下田会議)

さて開国の史実を元に、昭和9年より毎年5月に行われております「黒船祭」は下田の一大祭りになっています。観光パンフレットの17ページをご覧下さい。

1979年6月27日にジミー・カーター大統領がタウンミーティングで下田を訪問された際は、賑わいを通り越して町中SPだらけの大騒動といった様子だったのが今でも目に浮かびます。

カーター大統領お手植えの「ハナミズキ」の木と記念碑が、毎年黒船祭の式典が行われる、下田公園にございます。

黒船祭は米国海軍と海上自衛隊が主役です。

昨年の東日本大震災では自衛隊も米軍も震災復興支援をしていたのでやむなく黒船祭は中止されましたが、2012年の今年は、被災地である岩手県下閉伊郡(しもへいぐん)山田町の町民の皆さんをゲストにお迎えし、また米国大使や静岡県知事などもご参加いただき、盛大に行われることになりそうです。

この黒船祭が草の根の民間外交だとしたら、トップレベルの民間外交といえるのが日米関係民間会議、通称下田会議です。

その第1回が1967914日に下田東急ホテルで開催されました。

下田会議は日米両国における戦後初の民間政策対話です。

1967年から1994年まで、日米間で重要な政策課題が生じた時、継続的に開催されてきました。

日米両国のより対等で活発な日米パートナーシップ醸成の出発点となったと評価されてきたそうであります。

資料を読んでいて、1994年でなぜ中止されたのだろう?という素朴な疑問が湧いて来ました。

時の政権は、村山内閣でした。

それが昨年の2月、2011222日、新・下田会議が東京で開催されました。HPに記載されている内容をちょっとかいつまんで読んでみます。

過去10年間、あるいは民主党政権が誕生するまで、両国の指導者は日米関係はゆるぎないものと受け止めていた。

自民党政権のもとでは、実は良好な日米関係が築かれていたのですね。

私も含めてですが、そのことに日本国民は目を向けてきませんでした。

何も無いことの裏には多くの何かがあります。

国民の知らないところで、ご努力をされた方がいたはずです。

マスコミからつまらない揚げ足取りばかりされてきた自民党政権ですが、いったい私達に何をしてきてくれたのでしょうか。

残念ながらメディアでは取り上げられないのです。

政治の場にいると有権者の方が思うより、はるかに激務です。

下田のような小さな自治体にいてもそう思うのですから、国を動かされている方の働きといったらそれは大変なものだと思います。

日本という国を守るという責任が政治家にはあります。国家という枠組みがなければ、私達日本人の命は繋いでいけません。少なくとも日米関係が良好であった10年間、どんなことが起こってどんな対応を政治がしてきたのか、私たちをどう守ってきてくれたのか、今後しっかりと検証したいと思っています。

伊豆下田と開国

(開国とは)

さて、いよいよ伊豆下田と開国という話に入ってまいります。

ここからはお配りした資料の年表を参考にしていただくと、つたない私の話も何とか解っていただけるのかなと思います。

世界史と日本史を分けて学ぶ弊害だと思っているのですが、「いつの時代に世界はどうだったか?その時日本は何をしたか?」という系統立てた歴史が私自身解っていなかったこともあり資料を作って見ました。

先に結論から言ってしまうと、私は、開国とは日本にとっての初めての「本格外交」であり、そのときの無能政権が欧米列強に対し国を売り渡した「事件」だったと捉えています。

ペリー艦隊が日本にやってきた最大の理由は、日本を植民地にするためでした。圧倒的な武力の差で不平等条約を結ばされましたが、最悪な事態は回避され、日本は欧米列強の植民地にはなりませんでした。明治維新を成し遂げた志士たちによって日本は守られたのです。

そもそも日本はなぜ鎖国をしていたのでしょうか。

それは一言で言えば、キリスト教による欧米の植民地化を回避するための日本の国としての政策だったのだと思います。そしてもうひとつ、外国人商人による奴隷貿易から日本の国民を守るためだったのです。

植民地化と奴隷という最大の危機にさらされていたのが信長・秀吉の時代だったのです。だからこそのバテレン追放ですね。

鎖国政策によって日本はとりあえず安全を勝ち取ったといってもよいと思います。鎖国といってもすべての国に頑なに門を閉ざしていたわけではなく、長崎の出島をはじめ国内4ヶ所における管理貿易体制を敷いたということなのです。

そして船が入港する条件として世界情勢の情報提供を義務付けていました。

さてこの鎖国政策が採られていた200年の間、幕府の政策は全てが国内に向けられました。

その結果お金が国内に集中することになり、江戸文化が日本独自に成熟していきます。特に元禄時代には経済が急成長したことによって、様々な庶民文化が生まれました。

私の好きな歌舞伎も、元禄時代を中心に飛躍的に発展しました。

「元禄歌舞伎」という言葉を聞いたことありますよね?江戸歌舞伎の特徴は「荒事」上方歌舞伎の特徴は「和事」と呼ばれています。言葉はわからないところもあるけれど、文句なしにエンターテイメントで面白いです。

江戸時代にはその他にもいろいろな日本独特の庶民文化が生まれています。

落語や講談、浮世絵、花火、俳句。お花見や紅葉狩り、月見に雪見、行楽も盛んになるのですね。食も新しいものが生まれていますよね。江戸前寿司、天ぷら、そば、鰻にどじょう・・・。やっぱり国内が治まっている時は、文化が発展します。しかもどれもが庶民の娯楽であり、江戸に生まれた文化は諸外国に誇れる美学でもあります。

日本人の豊かな精神性、道徳性もこの時代に生まれ育まれたものだと私は確信を持って言えます。様々なアイディアが生まれ、凝り性の人達によって大きく発展した。その意味で鎖国は、日本人の精神性を高め、その上で日本独自の文化まで押し上げたとも言えるでしょう。

 この鎖国時代の200年間、下田にはどんな文化が根付いたのだろう、ということで色々調べてみましたが、行き詰ってしまいました。

それは後でお話することになりますが、安政の大津波など自然災害による資料の消失。そして港町であるが故にいつも新しい情報と新しい住民が行き交い、独自文化の醸成まで至らなかったのではと考えています。

その中で唯一お話できるのは400年余の歴史のある下田八幡神社例大祭・通称下田太鼓祭りです。観光パンフレットの18ページに写真が載っておりますけれども、これが現在のお祭りの形態です。

このお祭りは大阪夏の陣で功名をあげた、二代下田奉行今村傅四郎正長公が制定したものです。

下田は長い戦乱と度重なる災害で大変疲弊しており、民が元気になり熱く燃え、一丸となるようなものをという狙いでこの太鼓を伝えたものと言われています。

祭神は応神天皇でお神輿は関西の形態。担ぎ方は関東流。八幡さんと八雲さんのお祭りの形式がごちゃまぜです。楽曲は恐らく三河地方からのものです。時代によって変化し続ける、「伝統」を無視した継続が、如何にも港町らしい下田の文化と言えるのかも知れませんね。

鎖国したからこそ日本特有の文化が育ったというお話をさせて頂きましたが、さて開国とは一体何だったのかというお話に戻ります。それを知るには当時の世界の情勢を知らなくては解りません。

 

(当時の世界の情勢)

近世500年間の海外進出への中心となった国は、大雑把には16世紀がポルトガル・スペイン、17世紀がオランダ、18世紀・19世紀がイギリス、20世紀がアメリカと見ることができます。日本でも有名なマルコポーロは当時暗黒大陸と思われていたアジアの情報をヨーロッパにもたらし、東方見聞録によってヨーロッパの視線をアジアに向ける鳥羽口になったと言うことはあまり知られていないエピソードですよね。

現在の言葉で言えば産業スパイのような役割だったのかも知れません。実際タタール人の奴隷をアジアから連れてきたという史実も残っております。

先ずは16世紀頃の大航海時代まで遡らなくてはなりません。大航海時代と名称だけは綺麗ですが、実態は欧州の白人至上主義によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地獲得のための海外進出です。いわゆる世界の国々の陣取り合戦だったと言えば解りやすいでしょうか?自国の権益を他国の奴隷を使って増やす、他国の資源を搾取するというのが実情でした。

決して純粋な対等貿易ではなく、植民地からの富の搾取という事です。

特にこの時代に次々と他国を武力で占領し、植民地を獲得していったのはポルトガルです。

そしてヨーロッパ諸国による奴隷貿易というものは15世紀にポルトガル人によって始まりました。キリスト教布教という名目のもとに他国の国民を洗脳して植民地化。ある意味狡猾で今でも用いられている手段でもありますね。

16世紀にはポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社が設立され、奴隷を売ってもらえないイギリスが奴隷狩りを行うまでになっています。

18世紀になるとイギリスやフランスは、アフリカ大陸において武器と奴隷を交換し、西インド諸島に売却、砂糖などを持ち帰る三角貿易が始まり、さらにイギリスの産業革命の基板であった綿の紡績工業は、奴隷貿易が呼び水となり開始されました。イギリスでの銀行設立や産業革命への資本金は、この奴隷貿易で得たものであると言われています。

さて16世紀から17世紀にかけての日本は、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなどのヨーロッパ諸国に、東南アジア区域の植民地維持のための拠点として重要視されていたようです。様々な物資が日本に輸出されており、そのなかに奴隷も含まれていました。先ほどお話した植民地化と奴隷という最大の危機の背景は、こういうことなのです。

さて、開国当時の世界の覇者はイギリスでありました。この当時のイギリスが植民地支配していたアジア区域は現在のインドをはじめとして、バングラディッシュ・パキスタン・ミャンマーなどで、清はアヘン戦争での勝利でほぼ植民地化されています。イギリスが植民地政策で大きな利益を上げていると知った欧州列強はアジアの植民地化をどんどん推し進めていきます。地図に示してありますので参考にしていただければと思います。

年表を見ていただくとわかるのですが、開国当時、ペリーによる開国から15年の間は、クリミア戦争や南北戦争などで欧米が東アジアにエネルギーを集中できる余裕がありませんでした。日本にとってはそのことが幸いし、志士の活躍によって明治維新を成し遂げることが出来たのです。

意外に知られていないことですが実は鎖国といっても、あくまで日本が主体の管理貿易体制であり、外国の船が日本へ入港する条件として、世界情勢の情報提供をさせていましたので、幕府にはアヘン戦争による清国の情報は入ってきていました。強大な清国がイギリスの圧力の前に手も足も出なかったという情報です。本来は鎖国という比較的平和な状況の時にこそ、世界情勢を視野に入れたしっかりとした防衛政策を行わなくてはならなかったのです。世界の情報を手に入れておきながら、何も策を講じ得なかった。

開国とは無能政権が欧米列強に対し国を売り飛ばしたといった意味はここにあります。

さて、ここでアヘン戦争のおさらいをしてみたいと思います。

当時のイギリスはお茶などを大量に清から輸入していました。一方イギリスから清に輸出していたのは富裕層向けの品ばかりで、イギリスの大幅な輸入超過でした。

困った東インド会社は植民地のインドで麻薬であるアヘンを栽培させ清に売り銀を買います。その銀でお茶を買うというとんでもない商売を始めます。

清の麻薬中毒患者は増え続け銀の流出は止まりません。当然清は抗議するも圧倒的な武力の差で、イギリスに屈服することになったわけです。

第二次アヘン戦争後の1862年、高杉晋作は幕府派遣の一団に加わり上海を視察します。晋作の見た上海は一見すると、華やかで活気に満ちあふれていたようです。しかし現地の中国人は奴隷の扱いを受けているのを目の当たりにします。

欧米人が豊かになればなるほど、植民地の人々は貧しくなる。これが欧米列強のアジアの植民地政策、いわゆる奴隷化です。

「我が日本もすでに覆轍を踏むの兆しあり」と痛感した晋作は、志士として日本を守るために走りだしていったのでしょう。 ここでひとりの女性を紹介しておきます。お名前を野村望東尼さんといいます。高杉晋作をはじめ西郷隆盛ら、勤皇の志士たちを庇護した方です。晋作の最後も看取っています。野村望東尼の影の支えがなければ、もしかしたら明治維新はなかったかもしれません。

アヘン戦争による被害は清だけではありません。アヘンを栽培しているインドでも、現地のインド人はどんどん貧しくなります。

限られた農地は、インド人の食料ではなく芥子の花を大量に栽培しているのですから、作れば作るほど飢えに苦しむねじれた構造です。

欧米列強はこのような植民地政策で自国の利益だけを追求していきます。

その根底にあるのは白人に対しての有色人種差別。白人以外は人にあらずという考え方が根底にあったためでしょう。

これこそが植民地支配、文化侵略であり、併合とは全く性質の違うものだということを、私たち日本人は理解しておかなくてはなりません。

植民地支配とは領有権を主張するけれど、そこの住む人々は自国民と認めず、自国の利益のためだけの単なる単純労働力、奴隷のように扱われます。

一方併合は、宗主国と併合した国を同化するもので、住民を自国民として扱い、教育も公共サービスも自国民と同じように提供するのです。日本が中韓を植民地にしたと言われますが、日本は中韓の人間を奴隷扱いなどしていません。インフラを整え学校を作り教育に力を注いだというのが事実なのです。

いわゆる韓国の併合は欧米の植民地支配とは全く性質の違うものなのです。

ここを意図的に混同させようとする輩が日教組を中心に

跳梁跋扈

(

ちょうりょうばっこ

)

していますが、日本は欧米のような奴隷貿易などやってはいません。実際韓国の併合について調べても併合前のソウルの写真と、併合後のソウルの写真では文化水準度が著しく上がっているのだという事実は忘れてはいけない事だと思います。

当時の世界情勢をお話してきました。それではその頃の日本に目を戻しましょう。長い鎖国で外国からの干渉も受けずにいたため、政府が平和ボケの状態でありました。しかしそんな中にも明日の日本を憂いながらも、しっかりとした国の政策を描いた様々な集団や個人が動き始めます。それらが離合集散しながら、時には大きな犠牲を払いながらも着実にひとつの方向に向かって流れていきました。

 幕末の動乱は結果的に開国となりましたが、最終的なゴールは攘夷でありその手段を巡る戦いでした。

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