« 妄想的推論 北の死 | トップページ | 国家の友情と政治 »

下田の歴史 私のルーツ その11 ハリスとお吉の話

重い話題が続いたので今回は、悲しい「ラブストーリー」などを。

舞台は私の地元伊豆は下田。ヒロインの名を「お吉」と申します。

相手役はハリスという名のアメリカ人です。

そう「唐人お吉」の物語です。

もともと、1927年(昭和2年)に村松春水が発表した『実話唐人お吉』が初めてのお披露目です。

これは斎藤きちに取材した、現在で言うノンフィクションのような本でした。

その版権を買い取った作家の十一谷義三郎が、翌1928年に『中央公論』に掲載したのが初出で、

引き続き1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)にかけて東京朝日新聞に連載されたものです。

ノンフィクションからフィクションへ。ハリスとお吉の物語が生まれました。

その本は当時大ブームを呼び、映画化されて日本国中で有名になりました。

アメリカ人ハリスと日本人お吉の悲恋物語として。

12211

18567月、日米和親条約の規定に基づき、初代日本総領事ハリスが下田に着任し、下田の玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置されました。

それから3年もの間下田に滞在し日米通商条約締結に向けての幕府との交渉に臨みました。

ハリスは外国人としては初めて第13代将軍の徳川家定に拝謁し、「遠方からの書簡、又、口上、満足である。幾久しく交友したいと大統領に申し上げてもらいたい」という言葉を貰っています。

その後、幕府と根気強く条約交渉を進めた結果、18586月「日米修好通商条約」を横浜艦上で調印することに成功しました。

幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結びました。(安政五ヶ国条約)

いわゆる「不平等条約」の誕生です。

これが原因で、安政の大獄→桜田門の変→大政奉還と大変な時代の幕開けとなります。

どの様な、不平等が有ったのか、解りやすい例をいくつかあげてみましょう。

1、貿易に使う通貨の換算の不平等。

日本の主張の基準は、金を基本とするに対して、ハリスは金=銀=等価、そして銀を基本にする、重さから計算して1ドル(16匁)=1分銀(1枚)であるのに、ハリスの要求は、1ドル=1分銀(3枚)

日本はこれを飲まざるを得ませんでした。そしてそれは日本国内の金の海外流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなったのです。(幕末の通貨問題)。

2、治外法権

明治19年のイギリス貨物船ノルマント号事件が有名ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマントン号240トンが、航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破。

その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人びとに救助されて手厚く保護されました。

ところが日本人乗客25名はただの一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死した事件です。

当時の国内世論は、ドレーク船長以下、船員の日本人乗客にとった非人道的行為とその行為に根ざす人種差別に怒りました。

しかし治外法権の壁に阻まれ、検証作業も行えず、船長他全員が無罪にされました。

その後激しい怒りで世論が沸き立ち再裁判されましたが、ドレーク船長に禁固刑3か月。死者への賠償金は一切支払われませんでした。

悔しかったでしょうね。義が通らない「治外法権」は。

3、関税自主権が無い

関税はあらかじめ両国で協議して決められました。関税自主権が無いことにより、日本は自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできませんでした。

これらは全て日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の保護育成の大きな障害となったため、明治維新後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内法制の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んだという流れです。

結局、この不平等条約が解消したのは日本が日清戦争において清国に勝利した後のことです。

歴史の大きな流れを辿っていますが「ペリーによる軍事力での強制的な開国」→「不平等条約締結」→「日清戦争勝利」という感じです。

何故日本が関わる色々な戦争が起こったのか流れは見えてきましたでしょうか?大切な日本を守るためだった。それだけの事なのです。

これが日米の初めての本格外交の始まりです。

外交とは食うか食われるかの世界なのです。

だからこそ緻密に駆け引きするものなのです。

野田首相のような「のらりくらりの禅問答」は外交などとは呼べません。

その不平等条約を解消していった先人たちに頭が下がる思いで一杯です。

今ある日本の国家としての国際的な信用の高さは先人が築き上げたものです。

それを受け継いで更に良くしていくのが政治家の役割だと考えています。

先人たちの事を冒涜するような教育をする日教組。

やはり日本にとって害悪だとしか言いようがありません。

ハリスは強面の容姿とは裏腹にとても親日家の一面もありました。

『ハリス日本滞在記』の中で「私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀であることを、繰り返し云う。

日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と書いています。

住んでいた下田についても「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい」と記述しています。

面映くなるほどの大絶賛ですね。日本の文化を知った上で、ハリスは日本の近未来まで予測していました。

さて「唐人お吉」について。

下田一と評判の高い人気美人芸妓だった「お吉」が、17歳でハリスの世話人として奉公に上がりました。

病気で上手く動けなくなったハリスは、身の回りの世話をしてくれる看護婦を幕府に要求していたのです。

幕府側は日米交渉を優位に進めようと、政略をもって芸妓のお吉を送り込みましたが、そのことを知ったハリスは激怒してお吉をたった3日で帰宅させてしまいました。

ハリスの「看護婦」を「妾」と勘違いして通訳されたという説もあります。

当時はアメリカ英語からオランダ語、日本語という順番の通訳で意思の疎通を図っていましたから。

勘違い外交、早とちり外交の原型なのかも知れませんね。

要するに「外交の生贄」にされたのです。

その後、ハリスの人柄も聞かされ、改めて彼女の家族側から領事館にお願いし、奉公することになりました。

ハリスに仕えた期間はたった3ヶ月でしたが、お吉のその後は不運でした。

ハリスが去った後のお吉の気持ちは、二人との本当の仲を知らない第三者には想像もできませんが、地元に住む私は雨が降り注ぐ伊豆の海を見つめながら、ぽつんと寂しげに佇んでいるお吉の後ろ姿をふと想像したりなどします。

彼女の胸のうちにあったのは異人であるハリスへの恋慕だったのでしょうか。

単なる寂しさであったのでしょうか。

たった三ヶ月、異邦人と暮らしを共にしただけで「唐人」とののしられ蔑まれて、石持て追われるような仕打ちに対しての悲しみであったのでしょうか。

その後三島や横浜と移りました。

晩年は下田での商売がうまくいかず、酒に溺れてしまい、遂に48歳で下田蓮台寺の稲生沢川の淵に身を投じ自らの命を絶ちました。

本人同士でしか知りえないことが小説によって『悲恋の物語』として定着してしまいました。

自害は、人間、斎藤きちの、独り歩きしてしまった「自分神話」への最後の抵抗であったのかもしれません。

波乱に満ちた彼女の人生…。

斎藤きちとして彼女は幸せだったのでしょうか?今の私と同い年なのでとても気になります。

「唐人」という言葉から私はからゆきさんを連想します。

山崎朋子さんの著書『サンダカン八番娼館』で有名になりましたが、19世紀後半に、東アジアや東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことです。

この時代は貧しい家庭が、家族が食べるために、娘を売るという事が行われていました。

売春は違法ではありませんでしたから。当時の日本は。

今の感覚だと切ない話ですが歴史上の「客観的事実」として知っておくべきことだと思います。

たった150年前の話なんですよね…。

ただ娼婦=悲惨という短絡的なイメージは少し違うのでは無いのかな?と思っています。

現存するからゆきさんの写真では楽しそうな笑顔で写っているものが数多く残されていますし。

なんといっても毅然とした和服姿で、あの時代を生き抜いた逞しさが感じられます。

12212 

ですので、慰安婦問題を語る時に、「かわいそう」とか「悲劇」とか頭から決め込んで語るのは間違いだと思うのです。

貧しかった朝鮮人の娘さんがお金のために自分から娼婦になったとしか言えません。

12213

1933630日「東亜日報」

記事では金神通という少女を誘拐した朴命同が618日に鐘路署の警察官に逮捕されたことが記載されています。

朴命同は少女を誘拐し、中国人に売ろうとしていたようです。

犯人は誘拐の常習犯だったとも記載されています。

つまり今日本が汚名を着せられている「従軍慰安婦」というのは実際は朝鮮人の人身売買だったというのが真相なのです。

1933年は昭和8年で日韓併合されていた時期なのです。

韓国人の方たちはそこのところをどう思っているのでしょうか?

いえ、思うも何も客観的な事実経過は何も知らされぬまま、一つの「悲劇」が意図的に流されひとり歩きさせられているのでしょう。

そう、唐人お吉の物語のように。

歴史上の事実を、物語という名の神話でくるむのが許されるのはフィクションの中でだけのこと。

こと外交においてはフィクションは厳しく排除されねばなりません。

単なる事実に、ことさら悲劇的な情緒をまとわりつかせた「悲劇・慰安婦物語」に日本人も韓国人も騙されてはなりません。

先の記事で述べた狡猾な韓国大統領のやり方も又外交の一つなのでしょうね。

他国との友好は大切ですが、確固たる国家観を持ち、日本の国益のために外交を行うというのが、日本の政治家の基本なのでは?

私は下田シリーズを書き継ぎながら、「ペリーの黒船」の本質のようなことを考えていました。

黒船を調べているうちに高橋是清という人物にも遭遇し、後に総理になったこの方が白人の奴隷商人に売り払われた史実にもぶつかりました。

下田は本当に歴史への入り口ですね。

開国からの歴史の流れを現存資料を基に辿るうちに、大東亜戦争の本質も、ある意味アジア圏の奴隷化を目論んだ「黒船の再来」だったのではないかと思うに至りました。

それはまだ未熟な私論なので、もっと勉強していずれ発表させていただきますね。

ブログランキングに参加しています。
貴方の応援クリックが明日の活力になります。

 ↓ ↓ ↓

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村

|

« 妄想的推論 北の死 | トップページ | 国家の友情と政治 »

下田の歴史 私のルーツ」カテゴリの記事

日本の政治問題」カテゴリの記事

コメント

下田の歴史、待ってました。

唐人お吉の話、なるほどと思いました。

下田の歴史、続編に期待します。

投稿: たむたむ | 2011年12月21日 (水) 21時39分

先の大戦の発端が「第二の黒船」ではなかったか、という
視点はユニークですが、本質の一端をついているような気がします。
この分野に詳しくないので間違ったことを言うかもしれませんが・・・日本が立ち上がったお陰で、他のアジアの諸国が
「不平等条約」や白人支配から解放されたり逃れたりしたこと
など思うと。ハル・ノート自体が黒船であったのでしょうか
しらね。

投稿: たのかえる | 2011年12月22日 (木) 05時26分

社会科で一番習わなかった箇所ですよね。
ここら辺の近代史って。
唐人お吉は舞台化されていたのでなんとなく知っていましたけれど。
もっと甘く切ないラブストーリーかと思っていました。
斉藤きちさんって波乱万丈な人生を歩んだ方なんですね。
ハリーさんの日本の知識や親日度は高かったようですけれど、さすが外交官。
抜け目ない交渉していたんですね。
この「個人の友情」と「国家の友情」はイコールでは無いという厳しさを知りました。
最近の地球市民思想ってわざと両方を一緒くたにしていますもんね。
戦争はいけない=無防備宣言とか。
敵が攻めてきて無防備なら惨殺されても文句言えないですよね。南米のメキシコあたりに移住して是非「無防備宣言」していただきたいなあ。それで無事一生を過ごせたのなら、私もそういうのもありかもって見直します。
でもそういう人に限って日本にしがみつくのよねえ。
困ったものだわ。

投稿: 冬桜 | 2011年12月22日 (木) 19時38分

たむたむさん、コメントありがとうございます。
下田の歴史を調べていくうちに、色々な資料に行き当たります。
そしてそれが他の記事を書く元にもなっているのです。
下田の歴史シリーズご期待にそえるよう、頑張って行きますね。


たのかえるさん、コメントありがとうございます。
流石です、ハル・ノート黒船説。
今に生きる私たちが忘れがちなのが、
日本はいつも植民地の危機にさらされていたという事です。
もう少し当時の世界情勢を見ていかなくちゃいけませんんね。
現在にも言えますけど…


冬桜さん、コメントありがとうございます。
全然違うのだけど冬桜さんのコメント読んだら、
なんだかグリーンピースジャパンを思い出してしまったわぁ。
テロ組織なのに自衛隊に海賊から守れ言ったらしいわよ。
図々しい人ってどこまでも図々しいのよねっ!

投稿: tomiyo | 2011年12月23日 (金) 17時30分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 妄想的推論 北の死 | トップページ | 国家の友情と政治 »