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下田の歴史 私のルーツ その2  吉田松陰と下田

幕末・開国・明治維新という時の流れの中で、

人気者・尊敬される人というと、坂本龍馬・吉田松陰・勝海舟・・・等々、

この中で一番下田に縁が深いのは、吉田松陰でしょうか。

下田の歴史 私のルーツ プロローグ でご紹介した下田小学校の校歌の三番。

「南に広き下田港 平和の海に漕ぎいでて

文化の幸を求めんと 学ぶ我らの意気高し」

これは吉田松陰と金子重輔の「踏海の朝」をうたったものなのではないかと、

勝手に思っています。

下田市柿崎の弁天島から吉田松陰と金子重輔が、

「文化の幸をもとめんと」黒船に乗り込むため伝馬船で漕ぎ出したのです。

後日、弁天島にある(現在は地続きです)お二人の銅像をUPしますね。

やっと画像UP 11/21

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吉田松陰が(金子重輔も一緒ですが)黒船に乗り込むため、

下田入りしてからどのような動きをしたのかを記したいと思います。

(下田の郷土史家・土橋一徳先生の作られた年表や、伺ったお話を元にしていますが、

私の無知もあり間違った記載があれば責任は田坂富代です。ご容赦ください。)

嘉永七年3月18日午後下田入り、黒船が下田港に停泊するのをみとめる。

岡方屋(下田屋旅館)に泊まる。

(以下、明治36年に岡方屋主人の子より、徳富蘇峰が聞き取ったこと)

安政元年の春、暮なんとする頃、二人の武士入り来り候(中略)

両人共に二十三・四とも見ゆる若者にて、下田見物のため罷り越したと申候・・・

(いっぱい略)

夜は書き物やら書見やらなし、十一時半頃就寝し、それより二人ひそひそ相話し、

その声は二時過ぎまで聞こえ申し候・・・(いっぱい略)

嘉永7年3月19日 早起きして、黒船を見る

       いろいろあって・・・

嘉永7年3月26日 某村に行きて漁家に入りて朝食、また睡ること久し、

午食を終わり柿崎に至る、雨降り宿すべき所なし、某所に往き宿す。

嘉永7年3月27日 ここを発し柿崎に行く、幸に一夷の上陸するものに遭って書簡を渡す又

蓮台寺に往き入湯すること多し、七つ時村を発し、この夜夷船に至る、謀る所成らず。

・・・・・・というわけで、吉田松陰と金子重輔は、米艦に漕ぎ寄せ渡航を企て拒否され、

翌日自訴し就縛となります。

吉田松陰「回顧録」によれば、ポーハタン号に乗り込もうとしたが、

兵士が怒り木棒で松蔭の乗る船を突き放そうとしたが、

吉田松陰がポーハタン号の梯子に飛び移り、

金子重輔も飛び移る。

乗ってきた伝馬船は荷物を乗せたまま、流されて行った。

このようなことのようです。

この吉田松陰の荷物、どんなものが入っていたのでしょうか。

一 漢文書付 三枚

一 横文字書付 一枚

一 佐久間修理詩作 一通

一 大小 二腰

・・・・・いろいろ・・・

一 白木綿 二反

一 鰹節 二本

一 するめ 二束

・・・・・・いろいろ・・・・

一 銅矢立 一

一 四文銭 二十四枚

・・・・・・等々・・・・・・・・・

これを見ると、いろいろ想いは巡ります。

この品々が流れ付き中身をあらためられれば、自分の身分も明らかになる。

覚悟を決めて二人は、

嘉永7年3月28日早朝 柿崎村名主・平右衛門の家に行き、

事の顛末を話し下田奉行所に自主を取り次がせます。

そして嘉永7年4月11日 吉田松陰・金子重輔は、網掛け目籠に入れられ、

下田から江戸へ移送されます。

ここまでが吉田松陰の下田での足跡ということになろうかと思います。

密航をしようという二人ですから、必要最小限の人の接触しかなく、

指導を受けたとか一緒に学んだという人がいるということはなかった、

と言っていいと思います。

下田に残された史実や口伝のなかで、

私は「松陰の荷物」に心惹かれます。

これから渡航しようと思って作った荷物です。

一瞬にして「生きる」ためのものが、「死を決意」させるものになってしまった。

ポーハタン号を降ろされ柿崎の島影に身を隠した時、

どのような思いが胸をよぎったのでありましょう。

これから学ぼう、たくさんの事を学び日本のために働こうとした矢先なのです。

この後の松蔭は、安政2年12月15日に出獄を許され、

安政3年に塾を開き門徒に教授します。

それは死を覚悟し、自分の想いを、学問を、一刻も早く後継しよう。

そう思ったのではないかと思うのです。

この荷物は、身を隠した数時間の吉田松陰の心の揺れ動きを慮る、

歴史的な、そして情緒的な物的証拠なのではないでしょうか。

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1110b 

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

もしかしたら追記しようかなって思っています。

 

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下田の歴史 私のルーツ」カテゴリの記事

コメント

吉田松陰と伊豆下田の話、良かったです。松陰の学問は、机上のものではなく実践を重視したのでしょう。この思想のバックボーンは孟子だった。一億総評論家と言われる今の時代、吉田松陰に学び、それを実践して行きたいものです。次回に期待します。

投稿: たむたむ | 2011年11月10日 (木) 04時29分

先生、コメントありがとうございます。
「実践」がキーワドなのですね。

私は実践を「咢堂塾、故・相馬雪香先生」から教えて頂きました。先生亡き後も、尾崎行雄記念財団スタッフや咢志会、塾生から教えを頂いております。
そして現在、「日本論語研究会」から学ばせていただいているのが、自分の中ではとても大きいです。「実践」を重ねられている先生、先輩の姿が、学びそのものです。

投稿: tomiyo | 2011年11月10日 (木) 08時49分

我が家には「先輩」撮影・吉田松陰士と金子重輔士の銅像(踏海の朝)の写真が掲げてあります。
毎朝それを眺めてから家を出るのですが、密航決意の「その後」を想像するのは今回が初めてです。
当時の心中、いかばかりか。続きも楽しみにしています。

投稿: デルタフォース | 2011年11月10日 (木) 12時44分

デルタフォースさん、コメントありがとうございます。
「踏海の朝」の写真!!! 私の所にはありません(汗)
散歩コースにあるので、とても身近な銅像です。
指さし未来を見つめた姿の後、
そこからが本当のやるべき事、天の与えたミッションだったのではと思うのです。

投稿: tomiyo | 2011年11月10日 (木) 13時25分

弁天島にある銅像・吉田松陰と金子重輔の写真が特に良いです。

写真素晴らしいです。
これからも下田の写真お願いします。

投稿: たむたむ | 2011年11月21日 (月) 23時19分

先生、コメントありがとうございます。
写真、努力してみます。
実は弁天島には銅像はありません。
私の記載ミスです。
あの辺りは弁天と呼ばれている場所です。写真に写っている弁天島は、密かに隠れた場所。
銅像があるのは、近くの公園です。m(_ _)m

投稿: tomiyo | 2011年11月22日 (火) 08時13分

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