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下田の歴史 私のルーツ その5 安政の大地震・下田の大津波

植民地化の脅威を突きつけた「日米和親条約」を締結させ、

役割を終えたペリーは嘉永7年6月1日に帰って行きました。

(下田を出港後、琉球と修好条約締結)

米国への開国をきっかけに、諸外国が押し寄せることになります。

ロシアやオランダ・・・もっといっぱいです。

当時の玉泉寺には異国の言葉が飛び交っていたと、

住職のお話を聞いたことがあるような・・・今度聞きに行ってきます!(  ̄^ ̄)ゞ

(ロシアの話はまた別にエントリーします、北方領土のこともあるし)

そのロシアとの交渉中の嘉永7年11月4日午前10時頃(?)、

大地震と大津波が下田を襲います。

下田だけではありませんね・・・・・安政の大地震ですから。

(嘉永から安政に元号が変わります)

この地震と津波で、下田の町は壊滅します。

(ロシアの艦船ディアナ号も大破します)

名主の浅岡治兵衛も溺死します。(首長さんが亡くなったようなものですね)

以下下田町会所文書より

地震津波で崩れた家

一、家数875軒

  内841軒 流失・皆潰

    30軒 半潰・水入

    七軒町にて無事の家4軒

一、土蔵180ヶ所

  内173ヶ所 流失

    15ヶ所 半潰・水入

一、総人別3851人 

   内子供共99人 死人

   人別外23人

   合計 122人 死人

岡方村

46軒流失・皆潰 13軒半潰・水入

人別431人

柿崎村

75軒流失・皆潰・水入

人別386人

この日のうちに、救小屋を設置。

海善寺・宝福寺・本覚寺・泰平寺・岡方脇畑・柿崎村の6ヶ所で炊き出しする。

翌日の11月5日にも津波と地震あり。

11月6日 全壊後の下田の整理、住民救済に着手

以下下田町会所の記録の中の要約文

この時嘉永七寅十一月四日五ツ半頃、大地震津波になった。

町中残らず流出し大破は必死と皆困っていた。

その夜は大安寺山を始め宮山、海善寺山、敷根山通り、

七軒町・坂下町・弥次川町辺りの者は了仙寺・城山・大浦畠通りで

一夜を明かし誠に目も当てられぬ次第である。

一、両御奉行様や諸役人衆が下田へ出張していた。

そこで韮山代官所へ急用状を差し遣わした。直ちにお助け小屋を建てられ、

粥等を炊き出ししてくれたので、少しも不自由はなかった。

有難いことだ。

翌日になり町頭一同が集まり、町内人数を調べ、

被災者は役所と相談の上在方の親類へ頼んで預け、

遠いものはお助け小屋へお願いして養育することとした。

一、御公儀様より御助け金一軒につき三分宛下された。

なお御勘定奉行川路様、同組頭中村様、浦賀詰与力田中様より

夫々窮民の者へ米味噌を支給された。

その他甲州天野伴蔵様、石井村長左衛門様、当町吉兵衛様よりも

米、濡れ米等支給された。

御助け小屋に入った者は莫大な御慈悲に預かったので、

流家の取り片付け人足に出た。

女子供に至るまで日々賃金を下げ遣わされた。

この賃金を貯え元屋敷へ小屋掛けをし、

或いは在方親類に預け置かれた者も同様小屋を建てた。

被災直後の対応が誠に素晴らしいと思います。

おそらく防災計画などなかった時代に、

しっかりと住民は住民のやるべき事、役所や国もやるべきことを、

自然に出来ていたように思えます。

しかしこの震災での借財は、とてつもなく大きなもので、

明治中頃まで返済は続きます。

そのことが神子元灯台建設に繋がっていくことになったように聞きますが・・・

(後日確認ということで)

これはまたエピソードとして追記していきたいと思います。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

エピソード1

天野鍋

災害時には色々な支援物資が送られてくる。

救援物資はどれもこれも有難いものではあるが、

下田に語り継がれているのは「鍋」であります。

天野伴蔵より送られた見舞いの品は、

白米五百俵、鍋百七十六 布団五百枚

津波で流されたなら鍋もないだろうという、

鍋がなけりゃ煮炊きは出来ぬ、実に気の廻ることです。

この時天野伴蔵実は15歳、とてもこんな判断ができるとも思わず・・・

父の名は海蔵といい、境村の名主で裏の顔は博徒、

そして黒鍬の棟梁でもあったようです。

関東の大親分大場の久八の兄弟分でもあります。

代官江川太郎左衛門に頼まれ品川の御台場建設に活躍し、

建材の石材を下田から搬出したお礼として救援物資が送られたといいます。

博徒としての顔が息子の名前を使わせたのでしょうか。

大場の久八の子分に下田の侠客、弁天の安太郎と本郷の金平がいます。

下田への救援の想いには、この二人の存在があったのかも知れません。

(弁天の安太郎と本郷の金平の話も面白いのですが、

全くこのエントリーには関わりが無いので、又いずれ・・・)

天野鍋は教育委員会に保管されています。

エピソード2

困窮した下田町

安政元年、黒船の渡来以来、幕府の諸役人や諸藩の警備兵等が

多く下田町に出入りし、常に3500人は下らないようでった。

下田の町民、わずか200名は、常に奉行所の御用掛として

業務を命ぜられ、町家の大半は幕府の御用宿にあてられ、

商売もできない状況に。

その上、黒船への食料品の運搬、諸役人の世話、

御用所御組屋敷ご用として人足を町民から多数徴発せられ、

その人件費はすべて町の負担となったようです。

これに加え津波被害のため家屋船舶は破損し、

田畑は荒れ、町税を課すことができない状態が数年続きます。

安政6年に開港場が横浜に移されたときには、

町の借財は5000両にも及び、破綻寸前になりました。

この状況は明治まで続き、借財は下田町全戸が特別負担をし、

15年でなんとか返済することが出来たということです。

下田町民、頑張りました! 

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コメント

安政の大地震すごかったのですね。日本は地震大国。いつ何処で地震がおきるとも。危機管理の大切さが分かります。

投稿: たむたむ | 2011年11月13日 (日) 21時45分

先生、コメント有難うございます。
危機管理の大切さ、わかっているようで分かっていません。
学んだ後は、情報の共有を含めて実行です。

投稿: tomiyo | 2011年11月13日 (日) 21時58分

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