« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

下田の歴史 私のルーツ その8  下田会議

下田の歴史シリーズ、ちょっとお休みしておりました。ごめんなさい。

下田会議について書こうと思って、なにか資料はないかと探しておりました。

黒船社に行ったりしたのですが、別のイベントの話になり資料は探せず、

頼みの綱の「土橋年表」にも1行取り上げているだけで・・・

(土橋先生の所、お尋ねしご教授賜ろうと思います。)

土橋年表

1967年 昭和42年9月14日 下田東急ホテル 「日米関係民間会議」

日米関係民間会議、通称下田会議は、日米両国における戦後初の民間政策対話です。

両国の各界を代表する有識者の参加を得て開催されました。

1967年から1994年まで、日米間の重要な政策課題が生じた時、

継続的に開催されてきました。

日米両国のより対等で活発な日米パートナーシップ醸成の出発点となったと

評価されてきたそうであります。

1994年でなぜ止まったのだろう・・・素朴な疑問が湧いて来ました。

時の政権、自民党が野党の村山内閣でした・・・。

(この頃は新党乱立から、淘汰されていった時代だったのでしょうね)

その後橋本内閣になり自民党の政権に戻りましたが、

下田会議は開催されていなかったようです。

それが今年の2月、2011年2月22日、新・下田会議が東京で開催されました。

詳しくはこちらを・・・http://www.jcie.or.jp/japan/gt/newshimoda/index.html#schedule

そこにはこのように書かれています。

過去10年間、あるいは民主党政権が誕生するまで、

両国の指導者は日米関係はゆるぎないものと受け止めていた。

自民党政権のもとでは、良好な日米関係が築かれていたのですね。

私も含めてですが、そのことに目を向けてきませんでした。

何も無いことの裏には多くの何かがあります。

国民の知らないところで、ご努力をされた方がいたはずです。

開国の歴史から私の根本を知ろうと思い書き始めたシリーズですが、

歴史を紐解いていくと如何に多くの先人に守られてきたのかがわかります。

マスコミからつまらない揚げ足取りばかりされてきた自民党政権が、

私達に何をしてきてくれたのかも知らないのでは、

党員としてお話になりません。国民としてもです。深く反省です。

政治の場にいると有権者の方がが思うより、はるかに激務です。

下田のような小さな自治体にいてもそう思うのですから、

国を動かされている方の働きといったらそれは大変なものだと思います。

それに国を守るという責任がある。

国という枠組みがなければ、私達の命は繋いでいけません。

少なくとも日米関係が良好であった10年は、

どんなことが起こってどんな対応を政治がしてきたのか、

私たちをどう守ってきてくれたのか、しっかりと検証したいと思います。

(私の稚拙な知識の中で思うことは、

民主党の沖縄対応が安定した10年をすべてを壊した、

或いは壊すきっかけとなったということです。)

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

今日若い女の子から、

「田坂さん、我identityって、意味分かんない・・・」

同席していたまだ若いと言いはる男性からも、

「なんか漢字と英語、変だよね・・・」

そう言われまして、「確かに!私自身違和感あるし・・・」

一緒に考えて、「下田の歴史 私のルーツ シリーズ」に変更しました。

◯◯ちゃん、△△△さん、ご指摘&一緒に考えてくれてありがとうね^^

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村 ← ポチお願い致します

| | コメント (2)

心の力 石田尊昭

今日は静岡県・下田市主催の、

「女性の視点を取り入れたまちづくり」セミナーに参加してきました。

改めて学ぶ機会を頂き感謝しています。

さて、10時~15時30分のセミナーを終え帰宅すると、

待ちに待った本が届いておりました。

Photo

尾崎行雄記念財団の事務局長であり、

尾崎行雄の三女・故相馬雪香先生の秘書でもあった

石田尊昭さんが書かれた本です。

こうやって相馬先生のお顔を拝見すると、

思わず胸にこみあげるものがあります。

相馬先生は私が政治活動をしていく上で、

一番大きな影響を受けた方です。

まだ読んでいないのに何?なのですが、

間違いなく素晴らしい本です。

このブログを読んで頂いている方、

「どうか本を手にとってください」心からそう思います。

ぜひ石田尊昭オフィシャルサイトへどうぞ。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

一番最後のページに書かれた相馬先生の言葉・・・

「他人(ひと)を変えることって難しいですよ。

そんな簡単に他人の心や行動は変えられない。

でもね、自分自身なら明日からだって変われるでしょう?

他人を変えようと思う前に、まずは自分が変わることです。

自分自身の心の奥にある、良心の声に耳を傾ける。

そして、少しでも良い自分に変わろうとする

―今、みんながそう思えば、世界は今日からだって変わるのよ。」

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村  ← ポチお願い致します

| | コメント (3)

下田の歴史 私のルーツ その7 黒船祭

毎年5月に行われている黒船祭、下田市の一大イベントと言っていいでしょうか・・・

開国の歴史顕彰と日米親善に貢献するために、

昭和9年に始まりました。

以下、聞き取りのため、間違えがあればご指摘をお願いします。

もともとは開港80周年を契機とした観光振興をということで、

当時の下田町助役の森義男さんが仕掛けたものです。

大正14年にバンクロフト大使を迎え、開港70周年記念行事を行ったのがきっかけで、

いろいろなアイディアを練り上げ、各方面の協力を取り付け実現にこぎつけたのでしょう。

話によると当時まだ「ポーハタン号」が米国に現存しているということで、

これを下田に持ってこようという動きもあったようです。

(残念ながら実現できず、取り壊されてしまいました)

第1回の黒船祭はジョセフ・グルー米国大使夫妻を迎え、

日米開港先賢慰霊祭中心にして2週間開催されました。

(昭和9年 4月20日~5月3日)

連日の花火や太鼓を出すなど、町を上げてのイベントだったようです。

歴史の顕彰という名目で、よくぞこれだけのことをしてのけたと思います。

東京汽船、東海自動車、河津川水力電気等から多額の寄付を取り付けるなど、

官民連携の最たるものです。

さて、時代は少し下がり、第17回の黒船祭の計画案の画像です。

(黒船社に行って写メしてきました)

Kurofune5

   凄いお名前があります

        ↓

Kurofune7

Kurofune8

もうひとつ、新聞の切り抜き画像

昭和17年ですね・・・

     ↓

Kurofune6

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

追記.1

郷土史家・土橋一徳先生の年表から、

こんな記述が見つかりました。

第1回(昭和9年)の黒船祭の予算 1万円

ヒュッテ黒船(ホテル) 建設費 5万円

ネットで昭和9年当時の貨幣価値と比べてみたら、

どうやらこの1万円というお値段、

現在の1億円から1億5千万円くらいの価値のようです。

現在の下田市の黒船祭に駆ける予算は2000万円位です。

なんとこの5~7倍???

如何に民間が協力したか、スポンサーが価値を見出したかということです。

森義男さんの手腕がいかほどのものか忍ばれます。

民間が出す価値のないイベントになったのか、

それとも民間が公を思う気持ちがなくなったのか、

それは不明ですが・・・

経済状態が悪いからという理由だけで、

寄付金が集まらないわけではないのだと思うのです。

そこには「下田を良くするんだ」という熱意・想い・情熱がないからなのではなかろうか。

熱を持って接すれば、

熱を持って返って来る。

SRSボクシングジムのような想いがないから、

仕事が無いのに寄付なんぞ出来るわけがない。

そういう極々まっとうな応えしか返ってこないのだと思います。

上に立つものの想いこそ、人を動かすのでしょう。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

追記.2

昭和54年の黒船祭、

ロザリン夫人・愛嬢エミリさんと共に、

ジミー・カーター大統領が下田を訪問されました。

(私は高校1年生でした、たぶん・・・w)

市民とのタウンミーティングもあり、

その時の下田はなんといっていいのか・・・大騒ぎでした!

通常の黒船祭と違い、びっくりするほどのSP、

町の中の高い建物(とはいっても3階建てとかで屋上があるみたいな・・)には、

見張り?護衛?の方々が、いっぱいです。

それでもオープンカーでパレードしたんですよねぇ。

下田の町の狭い通りです。

大統領は手を伸ばせばすぐ「そこ!」にいます。

米国大統領って、カッコイイなぁ。

それが単純な女子高生の感想です。

毎年黒船祭で式典が行われる下田公園の開国ひろばには、

ジミー・カーター大統領お手植えの「ハナミズキ」と記念碑の横があります。

<にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村p> ← ポチお願い致します

| | コメント (2)

ブータン王国の国民総幸福

ブータン国王夫妻が日本を訪れてくださいました。

親日国であるというその裏には、必ず心を尽くされた日本人がいます。

海外技術協力事業団の西岡京治さんは、

生涯をかけブータンの農業に尽くされました。

そのおかげで、国際会議においてもいつも日本を支持してくれているのでしょう。

無礼な発言をする民主党議員がいたりで、困ったもんだと思ったりしつつも、

私事忙しく、記事にするのが遅くなってしまいました。sweat01

私がまだ20代前半だったころ、NHKの番組だったかな、

ブータン王国を取り上げた番組がありました。

その時私は、ブータンに行ったら、私の求める幸せに会えるかも知れない。

ブータンに住もう、そう思いました。(完全に現実逃避したかったのでしょうね。)

そのくらい魅力的な内容だったのだと思います。

日本と似た食文化があったり、家族の絆だったり、

信仰に裏付けされた行動だったり・・・

興味をもつのに十分なものでした。

特に大家族制が元になっている絆は、

憧れと嫉妬、両方を感じられるものでもありました。

(私自身の今の考え方とは随分違いますけど・・・)

そこで、国民総幸福の話。

その番組インタビューで、あなたは幸せかと聞く場面があって、

みんな幸せだというのですね。

今なら話半分に聞くのですけれど、

その時は「ブータンの国民は幸せなんだ」そう思いました。

国民総生産から国民総幸福へシフトしなくてはならなかった理由はあったのでしょうが、

今の日本が必要としているベクトルなのかもしれません。

餓死するような貧困はないけれど、

今の価値基準の中においては多くの人が貧困になっている。

今の価値基準が、人を幸せにする価値基準なのだろうか。

日本に足りないものはなんだろう。。。

現在、ブータン王国、どんなふうになっているんだろうか・・・

やはり近代化の波は押し寄せているようですが、

チベット仏教に裏打ちされた国民の価値観が、しっかりと小さな国を支えており、

国民が幸せを感じられるシステムづくりになっているようです。

形から入るのは悪いわけじゃないけれど、

中身が追いつくにはなかなか大変です。

中身があってこその形で、中身が伴わないと形が崩れていく。

日本としての国の価値をしっかりさせなくては、

国は支えられないし壊れていきます。

古の昔から受け継いできたものは、次の世代に繋いでいかなくてはならないもの。

幸せを感じられない国民であったなら、繋いでいく気にはならない。

今日本が早急に取り組まなくてはならないものは、

TPPとかそんな事ではないかも知れません。

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村 ← ポチお願い致します

| | コメント (2)

地方自治法への疑問

私が政治活動を始めたきっかけは、「リープロ住民投票を求める市民運動」です。

地方自治法第5章・直接請求の行使からでした。

市民サイドとしても議員としても住民投票の実現が出来ず、

とても残念だった。

地方自治法に書かれている住民の権利が何故否定されるのだろう。

そんな思いを抱き続けてきました。

議員になってからもこの地方自治法には、随分「まった!」をかけられてきています。

例えば一部事務組合の規定。(286条~291条)

1.地方公共団体が構成員となって設置する

2.一定の事務を共同して処理する

3.独立した法人格を持つ

そして、会議規則。(120条)

普通地方公共団体の議会は、会議規則を設けなければならない。

通常標準会議規則を元に、地方自治体議会は会議規則を作っています。

この標準会議規則62条には、「議員は、市の一般事務について、

議長の許可を得て質問することが出来る。」とあります。

この2つの条文のおかげで、構成団体の構成員でありながら、

一部事務組合に対する質疑が出来ないという状況なのです。

法令遵守が大原則で、それは曲げてはなりませんが、

それならばきちんと運用できる法改正が必要だと思います。

きっと憲法と同じです。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

そこで、最近とても気になっていること。

なんの意図を持って、地方自治法が作られたのかということです。

日本国憲法の作られた経緯はここで記すまでもありませんが、

「日本論語研究会」を主催されている田村重信先生の著書

「新憲法はこうなる」によれば、

憲法制定は 「日本の無力化の総仕上げである」

とのことです。

憲法が意図を持って作られたものである以上、

時を同一して作られた地方自治法が何らの意図を持たずに作られた、

と考えるほうが不自然だと思います。

日本国憲法 昭和21年11月3日公布

地方自治法 昭和年4月17日公布

昭和22年5月3日 同時施行

(憲法92条~95条に地方自治が定められているので、

 同時施行は当然といえば当然なんですけど・・・)

地方自治法に定められた二元代表制も、

地方自治を推進するなら、分権をと言ったほうが適切かな、

内閣制にしたほうがより機能すると思います。

世界的にあまり運用されていない二元代表制を取り入れた意味はなんなのだろう。

日々の議員活動、議会活動の中で立ちはだかる「地方自治法」、

どういう意図をもって作られた法律なのか、

その根本を知りたい。

そんな思いがふつふつと・・・参考になる文献はないか捜索中です。

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村 ← ポチお願い致します

| | コメント (0)

下田市議会議員の定数と報酬の削減を求める請願

11182

議員定数と報酬削減の請願が、8000名余りの署名を添えて、提出されました。

紹介議員は大川敏雄議員

請願代表者は土屋磯雄元市議会議員

外岡祐文元市議会議員 萩原聰治元市議会議員 など・・・

議長が受け付け、議会運営委員会にはかり、委員会付託という流れになります。

議会での審議で、採択、不採択の結果が出されます。

私は議員活動がしっかりやれるだけの報酬は必要と考えていますから、

報酬削減には反対です。

審議前にこれ以上のコメントはしませんが・・・

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

リーダーとデマゴーグは違う、

ポピュリズムで地域は壊れないか。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

にほんブログ村 政治ブログ 政治家(市区町村)へ
にほんブログ村 ← ポチお願い致します

| | コメント (2)

静岡県地議連政策研修会 「巨大地震が問う危機管理」 講師 小川和久先生

今日は公務で静岡出張でした。

静岡県地方議会議長連絡協議会・第2回政策研修会で、

NPO法人国債変動研究所理事長で軍事アナリストの小川和久先生のご講演でした。

11171 11172

本当にこの国を思って熱く語って頂ける方、

今日も発見しました。

この所、国の未来を思う熱い心をお持ちの方に、

立て続けにご縁を頂いています。ありがたい事です。

小川和久先生のお話も、ご縁を頂いた方々も、一言一言が、心に響きます。

国を思う、国の未来を思う、ひき繋いでいく絆を思う方々に共通したもの。

「世界の中の日本」

これがキーワードになっているように思いました。

「世界の中の日本、日本の中の地域、そこであなたは何をするの?」

いつもそう問いかけられていた故相馬雪香先生の想いとリンクします。

地方議会という中に席をおいて、私に何が出来るだろう。

どうしたらお役に立てるだろう、お役に立てているのだろうか・・・

日々の仕事の中で凹むことばかりです。

吹けば飛ぶような私の想いかも知れないけど、

それでも、少しでも、日本を繋いでいくことに力を尽くしたいと思います。

私に色々なご縁を繋いでいただいた方、

パワフルなご指導をして頂いている方、

こんな私にも期待を寄せて頂いている方、

私にとっての「だいじ・だいじ」な方々。

この方々の想いに応えられるよう、学びそして行動をしていこう。

小川和久先生のご講演を聞いて、

そんな想いが心から溢れ出てしまっています。

指の先から熱が上に上っていく、そんな感じです。

・・・・先生のご講演内容をUPしようと思ったのに、全くダメですね・・(;´Д`)

| | コメント (2)

下田の歴史 私のルーツ その6 日本初の米国総領事ハリスの苦労

ペリーが下田に来たのは嘉永7年、ペリーの日本遠征日記(?)によれば、

下田の清潔で美しい街の様子が書かれているとか・・・。

その後ハリスが日本初の米国総領事として着任したのは、安政3年。

安政の大地震の後です。

安政の地震の時は、下田の街まちは壊滅状態。

蔵が4軒しか残らなかったというのですから、どんな様子であったかと想像すると・・・

地震津波による田畑の荒廃は想像がされるところですし、

そこからとれる食物はどんなものだったろう。

確か肥田佐左衛門さんの書かれた本だったと思うが、

ハリスは日本の野菜が嫌いで、食べ物に困ったという記載があったような・・・

(当時の日本、基本は根菜類です。)

その中でも好んで食べたのは「さつまいも」だったという。

沖を通る外国船から、バターなどを調達していたらしい。

(中国人の料理人が作っていたというから、どんな料理だったんだろう。。。)

ハリスはこのように食事面でも随分苦労があったようだ。

牛乳も初めて飲んだんだよね?日本では。。。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

ハリスの本当の苦労は・・・・やっぱりお仕事がうまく行かなかったことでしょうか。

その辺りのこと、後日追記します。

肥田先生の本も確認してきます。

| | コメント (2)

私 11月13日が誕生日です

というわけで、48歳になってしまいました。

ここ数年、誕生日には母に「生んで頂いてありがとうございます」と

お礼をいう日になっております。

今年は筆や硯など一式ございますので、お手紙を書きました。

後で持って行こうと思います。

そしてご飯食べさせてもらおうw

お母さん、いつも迷惑かけてごめんなさい。

1113

| | コメント (6)

下田の歴史 私のルーツ その5 安政の大地震・下田の大津波

植民地化の脅威を突きつけた「日米和親条約」を締結させ、

役割を終えたペリーは嘉永7年6月1日に帰って行きました。

(下田を出港後、琉球と修好条約締結)

米国への開国をきっかけに、諸外国が押し寄せることになります。

ロシアやオランダ・・・もっといっぱいです。

当時の玉泉寺には異国の言葉が飛び交っていたと、

住職のお話を聞いたことがあるような・・・今度聞きに行ってきます!(  ̄^ ̄)ゞ

(ロシアの話はまた別にエントリーします、北方領土のこともあるし)

そのロシアとの交渉中の嘉永7年11月4日午前10時頃(?)、

大地震と大津波が下田を襲います。

下田だけではありませんね・・・・・安政の大地震ですから。

(嘉永から安政に元号が変わります)

この地震と津波で、下田の町は壊滅します。

(ロシアの艦船ディアナ号も大破します)

名主の浅岡治兵衛も溺死します。(首長さんが亡くなったようなものですね)

以下下田町会所文書より

地震津波で崩れた家

一、家数875軒

  内841軒 流失・皆潰

    30軒 半潰・水入

    七軒町にて無事の家4軒

一、土蔵180ヶ所

  内173ヶ所 流失

    15ヶ所 半潰・水入

一、総人別3851人 

   内子供共99人 死人

   人別外23人

   合計 122人 死人

岡方村

46軒流失・皆潰 13軒半潰・水入

人別431人

柿崎村

75軒流失・皆潰・水入

人別386人

この日のうちに、救小屋を設置。

海善寺・宝福寺・本覚寺・泰平寺・岡方脇畑・柿崎村の6ヶ所で炊き出しする。

翌日の11月5日にも津波と地震あり。

11月6日 全壊後の下田の整理、住民救済に着手

以下下田町会所の記録の中の要約文

この時嘉永七寅十一月四日五ツ半頃、大地震津波になった。

町中残らず流出し大破は必死と皆困っていた。

その夜は大安寺山を始め宮山、海善寺山、敷根山通り、

七軒町・坂下町・弥次川町辺りの者は了仙寺・城山・大浦畠通りで

一夜を明かし誠に目も当てられぬ次第である。

一、両御奉行様や諸役人衆が下田へ出張していた。

そこで韮山代官所へ急用状を差し遣わした。直ちにお助け小屋を建てられ、

粥等を炊き出ししてくれたので、少しも不自由はなかった。

有難いことだ。

翌日になり町頭一同が集まり、町内人数を調べ、

被災者は役所と相談の上在方の親類へ頼んで預け、

遠いものはお助け小屋へお願いして養育することとした。

一、御公儀様より御助け金一軒につき三分宛下された。

なお御勘定奉行川路様、同組頭中村様、浦賀詰与力田中様より

夫々窮民の者へ米味噌を支給された。

その他甲州天野伴蔵様、石井村長左衛門様、当町吉兵衛様よりも

米、濡れ米等支給された。

御助け小屋に入った者は莫大な御慈悲に預かったので、

流家の取り片付け人足に出た。

女子供に至るまで日々賃金を下げ遣わされた。

この賃金を貯え元屋敷へ小屋掛けをし、

或いは在方親類に預け置かれた者も同様小屋を建てた。

被災直後の対応が誠に素晴らしいと思います。

おそらく防災計画などなかった時代に、

しっかりと住民は住民のやるべき事、役所や国もやるべきことを、

自然に出来ていたように思えます。

しかしこの震災での借財は、とてつもなく大きなもので、

明治中頃まで返済は続きます。

そのことが神子元灯台建設に繋がっていくことになったように聞きますが・・・

(後日確認ということで)

これはまたエピソードとして追記していきたいと思います。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

エピソード1

天野鍋

災害時には色々な支援物資が送られてくる。

救援物資はどれもこれも有難いものではあるが、

下田に語り継がれているのは「鍋」であります。

天野伴蔵より送られた見舞いの品は、

白米五百俵、鍋百七十六 布団五百枚

津波で流されたなら鍋もないだろうという、

鍋がなけりゃ煮炊きは出来ぬ、実に気の廻ることです。

この時天野伴蔵実は15歳、とてもこんな判断ができるとも思わず・・・

父の名は海蔵といい、境村の名主で裏の顔は博徒、

そして黒鍬の棟梁でもあったようです。

関東の大親分大場の久八の兄弟分でもあります。

代官江川太郎左衛門に頼まれ品川の御台場建設に活躍し、

建材の石材を下田から搬出したお礼として救援物資が送られたといいます。

博徒としての顔が息子の名前を使わせたのでしょうか。

大場の久八の子分に下田の侠客、弁天の安太郎と本郷の金平がいます。

下田への救援の想いには、この二人の存在があったのかも知れません。

(弁天の安太郎と本郷の金平の話も面白いのですが、

全くこのエントリーには関わりが無いので、又いずれ・・・)

天野鍋は教育委員会に保管されています。

エピソード2

困窮した下田町

安政元年、黒船の渡来以来、幕府の諸役人や諸藩の警備兵等が

多く下田町に出入りし、常に3500人は下らないようでった。

下田の町民、わずか200名は、常に奉行所の御用掛として

業務を命ぜられ、町家の大半は幕府の御用宿にあてられ、

商売もできない状況に。

その上、黒船への食料品の運搬、諸役人の世話、

御用所御組屋敷ご用として人足を町民から多数徴発せられ、

その人件費はすべて町の負担となったようです。

これに加え津波被害のため家屋船舶は破損し、

田畑は荒れ、町税を課すことができない状態が数年続きます。

安政6年に開港場が横浜に移されたときには、

町の借財は5000両にも及び、破綻寸前になりました。

この状況は明治まで続き、借財は下田町全戸が特別負担をし、

15年でなんとか返済することが出来たということです。

下田町民、頑張りました! 

| | コメント (2)

下田の歴史 私のルーツ その4 ペリーの黒船 浦賀から下田へ

嘉永6年6月3日 下田沖神子元島周辺で黒船4隻が確認され、

同日浦賀へ来航。

これが、「太平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせんというお茶の銘柄) 

たった四杯で夜も寝られず」の黒船ではないかと思います。

翌年の嘉永7年3月3日日米和親条約が調印され、下田函館即時開港となりました。

(ペリーがポーハタン号に搭乗し下田に来航したのは、嘉永7年3月21日です。)

嘉永7年3月13日 吉田松陰は黒船が下田に向かうという情報を得、

3月17日に伊東で2隻の船を見ています。

これがサザンプトン567tとサプライ547tです。18日に下田に入港。

3月20日にレキシントン691tバンダリア700tが入港。

3月21日ペリー搭乗のポーハタン2415t(蒸気船)ミシシッピー1692t(蒸気船)が入港。

あれ?マセドニアン1726tていつ入港したんだろう・・・遅れて4月5日でした。

そういうことで、ペリー艦隊7隻が下田港に停泊したわけです。

1113b

5月14日 下田条約の交渉が開始され、22日妥結、25日調印。

(遊歩区域・米人埋葬地・水先案内港務官)

下田は異人さんが自由に歩きまわることのできる「特区」になりました。

(1265人もの乗組員が下田の街に上陸できたということですね。たぶん・・・)

ここからたくさんのエピソードが生まれることになります。

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

エピソード1

日本で始めての「洋楽コンサート」

ペリー2回目の上陸は嘉永7年5月13日、了仙寺において下田条約の交渉に入る。

ペリー上陸に際し礼砲が13発、先頭に大砲四門を曳き、

軍楽隊二組と剣付鉄砲の将兵400人が上陸し、

了仙寺境内で調練をしてみせる。

おそらく日本初の洋楽コンサートであったろう。

「太鼓大小色々、笛、ちゃらめる、横笛、らっぱ、その他色々の笛これあり」と記されている。

異国の見慣れない服を着た兵士達、聞いたこともない音楽。

下田の町民は、どんな思いでこれを見ていたのだろうか・・・。

エピソード2

了仙寺での饗応ー芸者はダメよ

ペリーが(他7名)初めて上陸したのは3月24日。

幕府の応接方が迎える中、了仙寺で饗応が行われた。

この饗応の席に酌婦が必要ということになり、

下田の奉行所は大変苦労することになる。

芸者では国の接待に場に相応しくないというのが、幕府応接方の言い分。

はたして民間で「異国人の前」に出てくれる女性がいるのか。

しかるべき家柄で、若くてしかも美人でなくてはいけない。

苦労の末選ばれたのが以下の3人。

坂下町御影屋七兵衛(組頭黒川嘉兵衛殿旅宿)の妻

池之町源兵衛娘

池之町医師貞庵娘

(ココに住んでいたのよと、ブログでは指し示せないのが残念)

*エピソードは尽きません・・・

*下田日米協会が編集した「幕末下田ばなし」を参考にしています。

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

日本初の領事館が置かれた玉泉寺には、米兵士のお墓があります。

今年の第7艦隊司令官交代式で司令官スコット・H・スウィフト中将に、

「我々は150年以上も昔から、

日本で亡くなった米海軍兵士のお墓を守っている。

それが日本の心だ、民間外交である」と、お話させて頂きました。

さて、米国の圧力に屈しびっくりするほど不利な条約を締結させられた「開国」。

誰かが言っていましたね。「TPPは平成の開国だと」・・・・

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

今ニコ動で参議院での質疑をみていました。

自民党と民主党の学び方の違い、歴然です。

| | コメント (2)

下田の歴史 私のルーツ その3 坂本龍馬の飛翔 勝海舟と山内容堂

吉田松陰が下田に来てから9年後の文久三年(1863年)、

坂本龍馬に関わる物語がありました。

龍馬は土佐藩を脱藩し身を隠しながら活動していた頃、

勝海舟と出会います。

そのいきさつはここに記すまでもありません。

このような記録が残されているようです。

土佐藩「文久戌年御上京一巻御日記、中老月番記録、道成日記」(寺村左膳筆)

正月十一日 朝五時品川沖出帆、北風追手よく、蒸気力も充分にて、

暫時の間に浦賀を出て城ヶ島より西に向かいて走る。

追々西風強くなり、船動揺はじまる。七つ頃伊豆下田の湊に入る。

お上にも少々お船酔い、外も同様なり。今夜甲板上に一同寄り集まり月を見る。

・・・・・十三日 西風昨日同様。退助、只八お小姓中の若者ども、蒸気船というものは

風雨天気の差別なく大洋中を航海するこそ趣意なれ。

この位の西風に出航しないのは、船将の職掌立ち難きなど議論甚だやかまし・・・

十四日 夜明けころより雨すこしやむ。・・・夕方頃ようよう下田の山を見る。

一同安心す。・・・・実に蘇生の心持ちなり。

すぐさまお上陸、以前の法福寺へ御止宿遊ばさる。・・・

十五日 西風少しも止まず。・・・・然るに只今順動丸のお船、当港に入った由。

勝麟太郎殿、上陸し・・・このことを御上が聞きなされ、今夜勝麟太郎殿を

御本陣へお招きになり、・・・お酒出、色々話あり。・・・・・・

下田にある宝福寺(日記には法福寺と記載されている)というお寺で、

勝海舟と山内容堂が会談し、龍馬の脱藩の罪が許されました。

そしてこのことが、龍馬が飛翔することにつながっていきます。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

この時酒の飲めぬ勝海舟に対し、山内容堂は大杯に酒をなみなみと注ぎます。

勝海舟はそれを飲み干します。

「勝が飲んだ、勝が飲んだ」と大いに喜び、龍馬を許したといいます。

勝海舟は念のためにと「証拠となるものを」と希望しました。

山内容堂は白扇にひょうたんの絵を描き、

「歳酔三百六十回、鯨海酔候」と書いたものを手渡しました。

・・・・そんな逸話も・・・大杯と扇子、宝福寺には展示されています。

| | コメント (2)

下田の歴史 私のルーツ その2  吉田松陰と下田

幕末・開国・明治維新という時の流れの中で、

人気者・尊敬される人というと、坂本龍馬・吉田松陰・勝海舟・・・等々、

この中で一番下田に縁が深いのは、吉田松陰でしょうか。

下田の歴史 私のルーツ プロローグ でご紹介した下田小学校の校歌の三番。

「南に広き下田港 平和の海に漕ぎいでて

文化の幸を求めんと 学ぶ我らの意気高し」

これは吉田松陰と金子重輔の「踏海の朝」をうたったものなのではないかと、

勝手に思っています。

下田市柿崎の弁天島から吉田松陰と金子重輔が、

「文化の幸をもとめんと」黒船に乗り込むため伝馬船で漕ぎ出したのです。

後日、弁天島にある(現在は地続きです)お二人の銅像をUPしますね。

やっと画像UP 11/21

11211

11212

吉田松陰が(金子重輔も一緒ですが)黒船に乗り込むため、

下田入りしてからどのような動きをしたのかを記したいと思います。

(下田の郷土史家・土橋一徳先生の作られた年表や、伺ったお話を元にしていますが、

私の無知もあり間違った記載があれば責任は田坂富代です。ご容赦ください。)

嘉永七年3月18日午後下田入り、黒船が下田港に停泊するのをみとめる。

岡方屋(下田屋旅館)に泊まる。

(以下、明治36年に岡方屋主人の子より、徳富蘇峰が聞き取ったこと)

安政元年の春、暮なんとする頃、二人の武士入り来り候(中略)

両人共に二十三・四とも見ゆる若者にて、下田見物のため罷り越したと申候・・・

(いっぱい略)

夜は書き物やら書見やらなし、十一時半頃就寝し、それより二人ひそひそ相話し、

その声は二時過ぎまで聞こえ申し候・・・(いっぱい略)

嘉永7年3月19日 早起きして、黒船を見る

       いろいろあって・・・

嘉永7年3月26日 某村に行きて漁家に入りて朝食、また睡ること久し、

午食を終わり柿崎に至る、雨降り宿すべき所なし、某所に往き宿す。

嘉永7年3月27日 ここを発し柿崎に行く、幸に一夷の上陸するものに遭って書簡を渡す又

蓮台寺に往き入湯すること多し、七つ時村を発し、この夜夷船に至る、謀る所成らず。

・・・・・・というわけで、吉田松陰と金子重輔は、米艦に漕ぎ寄せ渡航を企て拒否され、

翌日自訴し就縛となります。

吉田松陰「回顧録」によれば、ポーハタン号に乗り込もうとしたが、

兵士が怒り木棒で松蔭の乗る船を突き放そうとしたが、

吉田松陰がポーハタン号の梯子に飛び移り、

金子重輔も飛び移る。

乗ってきた伝馬船は荷物を乗せたまま、流されて行った。

このようなことのようです。

この吉田松陰の荷物、どんなものが入っていたのでしょうか。

一 漢文書付 三枚

一 横文字書付 一枚

一 佐久間修理詩作 一通

一 大小 二腰

・・・・・いろいろ・・・

一 白木綿 二反

一 鰹節 二本

一 するめ 二束

・・・・・・いろいろ・・・・

一 銅矢立 一

一 四文銭 二十四枚

・・・・・・等々・・・・・・・・・

これを見ると、いろいろ想いは巡ります。

この品々が流れ付き中身をあらためられれば、自分の身分も明らかになる。

覚悟を決めて二人は、

嘉永7年3月28日早朝 柿崎村名主・平右衛門の家に行き、

事の顛末を話し下田奉行所に自主を取り次がせます。

そして嘉永7年4月11日 吉田松陰・金子重輔は、網掛け目籠に入れられ、

下田から江戸へ移送されます。

ここまでが吉田松陰の下田での足跡ということになろうかと思います。

密航をしようという二人ですから、必要最小限の人の接触しかなく、

指導を受けたとか一緒に学んだという人がいるということはなかった、

と言っていいと思います。

下田に残された史実や口伝のなかで、

私は「松陰の荷物」に心惹かれます。

これから渡航しようと思って作った荷物です。

一瞬にして「生きる」ためのものが、「死を決意」させるものになってしまった。

ポーハタン号を降ろされ柿崎の島影に身を隠した時、

どのような思いが胸をよぎったのでありましょう。

これから学ぼう、たくさんの事を学び日本のために働こうとした矢先なのです。

この後の松蔭は、安政2年12月15日に出獄を許され、

安政3年に塾を開き門徒に教授します。

それは死を覚悟し、自分の想いを、学問を、一刻も早く後継しよう。

そう思ったのではないかと思うのです。

この荷物は、身を隠した数時間の吉田松陰の心の揺れ動きを慮る、

歴史的な、そして情緒的な物的証拠なのではないでしょうか。

1110

1110b 

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

もしかしたら追記しようかなって思っています。

 

| | コメント (6)

下田の歴史 私のルーツ その1  プロローグ

この所たくさんの出会いがあり、下田出身の先輩であったり、

勉強会の仲間であったり、自分の日常からは接点のない方など・・・

そういう機会に恵まれ、学ばせていただくことが山のようにあります。

(繋いでいただいた方には、心から感謝する次第ですm(_ _)m)

そういう学びの中で議員活動をしている私の根本、

この世に生きている私の元になっているのはなんなのだろう。

何に突き動かされているのだろう。

そんなことをよく考えるようになりました。

その時に頭によぎったのは、下田小学校の校歌です。

*******************

下田小学校校歌

一番

米使ペリーの来航に鎖国の扉開かれて

曙光眩く海外に名も知られたる我が下田

二番

愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて

永遠に輝くいさおしの誉れも高き我が下田

三番

南に広き下田港 平和の海に漕ぎいでて

文化の幸を求めんと 学ぶ我らの意気高し

四番

北にそびゆる下田富士 希望の峰を仰ぎつつ

不朽の塔を築かんと 集う我らの意気高し

***************

子どもの時は呪文のように歌っておりました。

(まるで論語の素読みたいです^^;)

私はこの校歌が大好きなんです。

下田の開国の歴史が集約されていて、

そこに学びなさいという思いで書かれたであろう先生の、

その思いが胸をうつからっです。

この校歌にでてくる先人や開国の歴史を考えてみたいな・・・

この年になって、ようやく思うようになったというわけで・・・(;´Д`)

これから暫くの間、開国の歴史に関わることを書いていってみようかと思っています。

きっと私を作った元が、下田の歴史にあるのではないか、

そんな気がするからです。

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

追記

勉強会の仲間が、偶然のつぶやきで教えてくれました。

中根東里の言葉 (下小校歌二番に出てくる、下田出身の陽明学者)

*施して報を願わず、受けて恩を忘れず。

*出る月を待つべし、散る花を追うことなかれ。

| | コメント (2)

息子の誕生日によせて

明日は息子の誕生日です。

26歳になります。

毎年「生まれてきてくれてありがとう」メールを送っていますが、

読んでいるかどうかは不明。

小さい時はとても体が弱く、週のうち2~3日は病院てこともよくありました。

それ以外は手のかからない子で、いつも黙って私を見てくれていました。

ずっと彼が学校をでるまでがんばろう、そう思ってきた。

彼のためにがんばろう。

でもある時気がついたのです。

黙って私を見て、私がつらい時にはいつも寄り添ってくれていた。

私の顔を見上げ、小さな手で私の手を握ってくれたのは彼でした。

彼は私の父にもいつも寄り添ってくれていた。

それでどれだけ私が安心していられたか分からない。

今こうして政治の道をこころざし、

しっかりと歩いていけるのも、

私に寄り添ってくれた小さな彼がいたからです。

彼は大人になっても、なんとなく誰かに寄り添ってあげています。

自分自身では気がついていないのでしょうけど。

辛そうにしている人の所に、そっと寄り添っています。

そしてふわりふわりと自由に動いている。

私は彼の生き様がとても好きです。

この一年も彼にとって「適度に刺激のある年」になってほしいものです。

母のもとに生まれてきてくれて、ありがとうね。

| | コメント (0)

地方自治経営学会その6 遠野モデルとしての三陸文化復興プロジェクト 赤坂憲雄学習院大学教授

赤坂憲雄先生、静かだけど想いのこもった言葉で、

文化について語って下さいました。

遠野物語という大切なものを、心のなかに大切な宝物として守ってきている。

遠野と沿岸の市町は縁戚関係にある人たちが多数いる。

人事ではない。顔のみえるひとが被災をしている。

それが遠野市民の支援活動の根底にある。

・・・・・・・・・・・・・・・

文化による復興支援、図書の後方支援。

まず図書館の調査を行った。

学校図書館や市立町立図書館の被災で、

本を読めない、本がない状況が続いている。

全国に向かい遠野に本を送ってくれと呼びかけたところ、

27万冊の本が集まった。

しかし集まっただけではどうにもならない。

ボランティアと緊急雇用で本の整理を行なっている。

図書館の整備ができたら、翌日からすぐに利用できるように、

PCに情報入力し、分類し整理保管している。

受け入れ環境が整うまで続ける。

文化財レスキューにも取り組んでいる。

文化財は住民のアイデンティティーを支える。

「文化の力で元気なまちを作る」遠野フォーラムを毎年開催していく。

復興の第二ステージは文化と心、

地域づくりの基になる遠野モデルを作りたい。

************

遠野物語を核とし、語り部や民族文化を大切にしていることがよくわかる。

膨大な保管場所は市が用意、緊急雇用もつけている。

苦しい中で文化に予算をつけるということの意味は何か。

人を育てること、つなぐことの大切さを知っているのだと思いました。

| | コメント (4)

地方自治経営学会その5 ミルクとワインとクリーンエネルギーの町・葛巻町

すみませんm(_ _)m

今回の講義の中で、一番興味がなかったです。

おそらくですが・・・過疎債やそのた国の補助金を、

最大限に利用したまちづくりをやられたという事です。

町長が商才があったというだけのことで・・・

誰にも真似できる話ではありません。

鈴木葛巻町長の辣腕のお陰で出来たまちづくり、

そんな印象でした。

このまちづくりに関しては、ここに記すまでもありません。

素晴らしいです。

三セクが成功したということなんですけど、

*三セクに権限を置く

*社長(町長)が責任を取る

コレを忠実に行ってきた結果です。

世の中の企業成功者と同じです。

結果として、町は豊になります。

ただ、私が引っかかったのは、過疎債。

これがあったのではないかとうことだけです。

あとは葛巻町長の手腕によるもの、一言につきます。

| | コメント (0)

地方自治経営学会その4 本田敏秋遠野市長 後方支援としての役割

遠野といえば「柳田国男・遠野物語」でありましょうが、

この震災においては「後方支援」として注目を浴びています。

行政のトップとしてこの危機に直面し、

つながりの深い周辺地域を我が事とした対応ぶり。

市長の熱い想い、そして辛い想いが入ったお話でした。

大槌町の平野総務課長のお話と同様、被災地の現実であります。

本田市長がまず話されたこと、それは「お亡くなりになった方の火葬」についてです。

ご承知の通りあれだけの甚大な被害を受けているわけなので、

周辺市町村の現場は火葬能力がたりない。

遠野市さん受けてもらえませんかと言われても、

遠野市自体の能力は一日に4人のご遺体を火葬することしかできない。

そんな時に県はお金は出しますからという。

お金ではない対応能力がないのだということが、

県には分からなかった。

遠野市は沿岸と内陸のつなぎ役として平成20年に、

三陸地域地震災害後方支援拠点施設整備を行い、

自衛隊と共に実践に近い訓練をしてきた。

震災当日、遠野市も市役所は全壊という中ですぐに動いた。

市役所庁舎横にテントを張り、全員協議会を開催。

議会と協議しながら進めていった。

被災した周辺市町からあまり避難民が来なかったため、

避難民を受け入れる公民館や地域の144ヶ所の集会所を住民から借入、

ボランティアの受入れに急遽変更し対応した。

被災地に送るための備蓄が充分ではなかったために、

市内のあらゆる食料品店で食品を購入、議会の了解を得、専決予算で対応。

被災地に食べるものを届けるための後方支援を、

遠野市民が後方支援した。

3月13日にはあの余震の続く中、遠野市民は周辺の被災地のため、

おにぎりを握っていた。 (思わず涙が出ました・・・)

今回の震災では住民の命を守る人(市町村職員)が被災し、

庁舎も被災、行政としての機能をしなかった。

それぞれの市町村内のネットワーク、

三陸地域の市町村のネットワークが力となった。

****************************

今回の震災の検証として、「後方支援の制度化が減災につながる。」

と、言っておられました。

国、県の対応の悪さは、ここに記すまでもありません。

| | コメント (0)

地方自治経営学会その3  政権交代が目的化した民主党には政策理念がない!

「震災と政局とその地方分権」と題した、

山口二郎北海道大学教授のお話です。

学者さんのお話は難しいです。

でも簡単に話すことの難しさはわかるので、一生懸命聞きました。

それに2時限目?だったので、まだ元気ありましたから(;´∀`)

このメモ書き文章になるんでしょうか・・・やってみますが・・・

わけわからなくなったら、ゴメンナサイです。

野田首相は、分権に興味なし。

党内のゴタゴタで緊急避難としての野田政権は、

政治のテーマ性が欠如している。

もともと民主党は政権交代が自己目的化していたため、

政治理念がなかった。政治家なら何をやるのか

言わなくてはならない。

こんなところから始まりました。

慢性疾病の状態に陥っているところへの新たな外傷としての東日本大震災。

市民社会の役割は災害をきっかけに連帯による相互扶助を進めること、

政府の役割は政策にするということである。

福島の問題を見ても分かるように

「起きて欲しくないことは起きないことにしておく」というような、

自己修正ができない政治に陥っていた。

異論も含めしっかり議論をしなくてはいけない。

官僚にしても「手持ちの予算の範囲内で問題認識する」という、

本来のミッションを見失っていた。

本来ミッションがあり、予算をくまなくてはならないはず。

こういった中で当面する政策課題は「TPPと社会保障の問題」である。

まずTPPをどう考えるか。自由化は問題解決の万能薬なのか。

小泉政権の構造改革後(雇用の規制緩和)、企業は儲かるのに、

従業員は貧しくなった。

貧困の拡大を引き起こすことになった。(20代~40代層の貧困率の増加)

自由化によるリスクはあまりにも大きいのではないか。

税と社会保障の一体化について。

増税の必要性を訴えているが、

財政再建を手っ取り早くやるという増税である。

税よりも社会保障負担が大きい現状を解決すべき。

(税の話から減税日本、地方政治の話しへ)

直接民主制は「諸刃の剣」だ。

住民投票は「吉野川可動堰」と「名古屋の議員報酬引き下げ」とは、

意味合いが全く違う。

リーダーとデマゴーグ(橋下徹&川村たかし)は違う。

首長だけいればいいわけではなく、

地方のデモクラシーを担うのは議会。

大衆迎合で地域は壊れないか。

****************:

ざっとこんなお話だったような・・・

なんていうか、随分左翼臭い(失礼(^^ゞ)方だなって思ったのですけど・・。

リーダーとデマゴーグは違う、

ポピュリズムで地域は壊れないか。

これは異議なしです。

以前こんな記事を書きました。

リープロ住民投票を求める市民運動。

私、34歳だったんですね。

普通のオバハンが、マイクをもって街頭に立ったのでした。

総務委員会に参考人で呼ばれ、随分色々なことを聞かれました。

当時の議会が否決をし住民投票は行われず、

結果として31億5千万円のハコモノが出来上がりました。

平成28年まで毎年1億円の償還は続きます。

そして250億円を超える借金の山ができ、

乾いた雑巾を絞るような財政運営を余儀なくされました。

その時に沢山のハコモノを作り続けた元議員の方々が、

議員定数と議員報酬を減らせという署名活動を行なっております。

理由は「財政が厳しい事と市内経済の悪化」らしいです。

12月の定例会には250億の借金を作った前政権の与党議員が紹介議員となり、

請願が出てくるようです・・・7000名もの署名を添えて。

ちなみに議会費の中で大きな出費となっているのは、

破綻した議員年金の負担金です。

私たちは貰えませんが、過去の議員さんだった方に支給される年金の原資です。

紹介議員も議員をやめたあかつきには、

またこの年金が支給されます。

いやはや・・・摩訶不思議な世界です・・・

ポピュリズムそのものですね。

議員報酬を引き下げるというのを公約に掲げ、

4月の選挙では随分たくさんの票を得て当選されました。

下田市の議員報酬29万円、手取りにすると19万円あまり。

政務調査費なし。会派視察費用なし。

これではサラリーマンが政治の場にでることは不可能ですね。

ましてや子育て中の若い人は絶対に出られません。

議会はお達者倶楽部でよいということなんでしょうかね。

よく北欧の話を持ち出すけれど、

子どもが大学出るまで教育費はかからないわけで、

それならば安心して議員になれますよ。

まぁそんな感想で・・・明日は遠野市長のお話をうpしてみようかと。

| | コメント (2)

元自衛官による危機管理とは  静岡県小山町

平成22年台風9号に豪雨で激甚災害に見舞われた小山町の

危機管理の素晴らしさについて、御殿場市の副議長さんに

昨日の静岡県市議長会総会にて、情報を頂いた。

111l

9月9日当日1時間に120ミリという尋常ではない雨量を、

防災監が承知したのが午前10時。

小山町は9月定例会の本会議中であった。

本会議というのは議会では一番重いものであるから、

通常は何よりも優先される。

そんな中、元自衛官(学校の教官)の防災監は、すぐに動く。

本会議出席中の町長に対し、躊躇することなく災害対策本部の設置を求め、

情報収集、自衛隊への災害派遣要請、学校の子供達の下校、住民の避難を、

的確に行った。

ほぼ同じ雨量を計測した周辺地域とは、

対応時間が数時間違ったという。

非常時の指揮としては大変素晴らしく、

激甚災害であったが住民が唯一人も亡くならなかったという。

(私の聞き取りなので、間違い外があったらご容赦ください。

 文責は田坂富代です。)

危機管理ということを徹底して自身の身に叩きこんでおられる自衛官OB。

防災監の彼らの活躍は、地域住民の命を救っています。

通常地方自治体では、総務課(下田では市民課)の課長が防災監を兼務しています。

片山善博前総務大臣も言っておられたように、

防災監は兼務では役をなしません。

ヒマでいいから、いつもいつも専任で防災のことだけは考えなくてはいけない。

平時においていつも非常時のことを考えなくてはいけない。

そういうことが出来るのは、まさに自衛官或いは退職自衛官しかいません。

自衛隊の服務の宣誓

宣 誓
    私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。

私はこの宣誓を読むたびに涙が流れます。

このような誓を立て、国民のためにお働き頂いている。

ここに記すまでもなく色々な制約や不理解の中で、

身命を賭してお働き頂いたOBの方々は、

様々な危機に直面した経験をお持ちです。

いつも身をもつて責務の完遂に務めて来られた方々です。

身をもってという経験をされた方々のお力を、

もう一度地域のために、日本のために使っていただきたい。

地域の防災監は、危機管理をした経験者にお願いするのが一番だと思います。

***************************

さて、今回の静岡県市議長会では、磐田市が開催地でありましたので、

ヤマハの視察見学をさせて頂きました。

工場内は当然写真NOですが、

展示室はOKということでしたので、私としては珍しく色々写してきました。

きっとすご~~~~~い物が並んでいたのだと思います。

でも私にはどの位貴重なものなのかさっぱりです。

このブログをのぞいてくださっている方で、楽しんで頂ける方がいたら幸いです。

111 111b

111111d 

111e

111j

111k

111i

YAMAHAといえば、カジキサポートクラブにとっては・・・

海でしょうかね~やっぱりw

JGFAのTやポロにはYAMAHAのロゴが入っていたはず・・・。

海関係の画像1枚はFacebookにアップしようと思います。

S会長には見てもらいたいのでねw

| | コメント (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »